合巻
合巻(ごうかん)は、寛文期以降江戸で出版された草双紙類のうち、1807年(文化4年)頃に始まった最終形態。それまで5枚(5丁)1冊に別々に綴じていたのを、5巻1冊にして綴じたもの。19世紀末期まで続いた。
歴史
編集赤本・黒本・青本・黄表紙と時代を下った草双紙(挿画入り娯楽本)の最終様式で、江戸後期から流行して明治に至った、初級読者対象の中型本(美濃紙半截二つ折り)絵画小説[1]。古典を下敷きに、洒落・滑稽・諧謔を交えて風俗・世相を諷刺的に描き綴って売れていた黄表紙類が、松平定信の寛政の改革期に相次いで発禁にされ、黄表紙界に仇討ちものを中心にした長編化の傾向が生じ、従来の5丁単位の「巻」を「合」わせて5巻1冊にする工夫が為され、「合巻」と呼ばれるようになった[1]。その内容は、読者の好みと世相の変遷に従って、仇討・お家騒動・古典の翻案・歌舞伎・教訓・変態・猟奇などに変遷した。
1804年(文化元年)の、春水亭元好作・歌川豊国画『東海道松之白浪』が、表紙に『全部十冊合巻』とうたっている[2]。1806年の式亭三馬の『雷太郎強悪物語』が合巻の始まりとの説は、三馬の自己宣伝に発すると言う[3]。研究上は、5巻1冊が複数巻1冊に移行し始め、「全新合巻」などの語が現れる文化4年を合巻の始まりとする[1]。
作者には、山東京伝、十返舎一九、曲亭馬琴、山東京山、式亭三馬、柳亭種彦、為永春水、一筆庵主人、墨川亭雪麿、笠亭仙果、らがいた。絵師には、北尾重政、歌川豊国、勝川春扇、葛飾北嵩、二代目歌川豊国、歌川国貞、渓斎英泉、歌川国直、歌川国安、歌川貞秀、貞斎泉晁、歌川貞重、四代目歌川豊国、落合芳幾、らがいた。
合巻の装丁は摺付表紙という美麗な装丁だったが、水野忠邦の天保の改革(1841-1843年)で華美が禁じられたことにより、いったんは衰退。改革後に再び美麗な装丁が復活するが、合巻の中心作者だった為永春水と柳亭種彦は没しており、作者・作品のレベルの低下は免れなかった。やがて明治に入り、大衆向けの新聞小説の影響を受けて消滅した。
ただし、明治期に入って即座に合巻が消滅したわけではなく、高木元によれば、明治期には「近世期合巻の後印本」「近世期長期合巻の続編」「明治出来の合巻」「明治期草双紙」の4種類が流通していたという[4]。また、明治期に「東京式合巻」が存在したとする主張があったが、現在は否定されている[5]
主な合巻とその厚さ
編集主な合巻を、年を下る順序に列記する。各行末の括弧内の、例えば(50×2)とは、50ページ(25丁)ずつ綴じた2冊、計100ページ、の意である。表紙・裏表紙・口絵・広告などは、数えていない。
- 春水亭元好作、歌川豊国 画:『東海道松之白浪』、永寿堂 (1804)(50×2)
- 式亭三馬、歌川豊国画:『雷太郎強悪物語』、西村新六 (1806)(50×2)
- 山東京伝作、歌川豊国画:『糸車九尾狐』、永寿堂 (1808)(30×3)
- 山東京伝作、歌川豊国画:『岩井櫛粂野仇討』、永寿堂 (1808)(30+40)
- 山東京伝作、歌川豊国画:『累井筒紅葉打敷』、耕書堂 (1809)(80×1)
- 山東京伝作、歌川豊国画:『志道軒往古講釈』、(1809)(60×1)
- 山東京伝作、歌川豊国画:『男草履打』、甘泉堂 (1811)(30×2)
- 山東京伝作、勝川春扇画:『暁傘時雨古手屋』、耕書堂 (1811)(60×1)
- 柳亭種彦作、葛飾北嵩画:『鱸庖丁青砥切味』、永寿堂 (1811)(70×1)
- 山東京伝作、歌川国貞画:『薄雲猫旧話』、岩戸屋 (1812)(60×2)
- 山東京伝作、歌川豊国画:『娘清玄振袖日記』、永寿堂 (1815)(60×1)
- 柳亭種彦作、歌川国貞画:『正本製 初編 - 12編』、永寿堂 (1815 - 1831)(編により80×1、60×1、40×1)
- 山東京伝作、歌川豊国画:『琴声美人伝』、丸屋甚八 (1816)(60×1)
- 山東京伝没 (1816)
- 山東京伝作、歌川国貞画:『長髦姿蛇柳』、東永堂 (1817)(30×1)
- 十返舎一九作、歌川国直画:『糠三合有卦入聟』、鶴屋喜右衛門 (1820)(20×1)
- 十返舎一九作、歌川国直画:『御あつらへ出来合女房』、鶴屋喜右衛門 (1820)(20×1)
- 北尾重政没 (1820)
- 為永春水作、歌川国直画:『総角結紫総糸』(1822)(50×1)
- 式亭三馬没 (1822)
- 曲亭馬琴作、歌川豊国画:『諸時雨紅葉合傘』、甘泉堂 (1823)(50×1)
- 幽月庵元越作、十返舎一九校合、北尾美丸画:『附祭踊子新書』、伊藤与兵衛 (1823)(50×1)
- 曲亭馬琴作、歌川豊国画:『膏油橋河原祭文』、仙鶴堂 (1823)(30×2)
- 曲亭馬琴作、渓斎英泉画:『金毘羅舩利生纜』、和泉屋市兵衛 (1824)(30×2)
- 曲亭馬琴作、二代目歌川豊国(初編)・歌川国安(2編以降)画:『傾城水滸伝 初編 - 13編上』、仙鶴堂 (1825 - 1835)。(編により、20×1か40×1)
- 歌川豊国没 (1825)
- 為永春水作、春川英笑画:『腹内窺機関』、永寿堂 (1826)(20×1)
- 為永春水作、歌川国丸画:『浦島太郎珠家土産』、青林堂 (1828)(80×1)
- 為永春水作、歌川国丸画:『風俗女西遊記』、青林堂 (1828)(60×1)
- 柳亭種彦作、歌川国貞画:『偐紫田舎源氏初編 - 38編(未完)』、仙鶴堂 (1829 - 1842)(各編とも、80×1)
- 西来居未仏作、歌川国兼画:『忠臣合鏡 前 後編』、森屋治兵衛 (1829)(30×2)
- 為永春水作、春川英笑画:『愚智太郎懲悪伝』、(1829)(60×1)
- 為永春水作、渓斎英泉画:『繋馬七勇婦伝』、(1829)(50×2)
- 曲亭馬琴作、歌川国安画:『新編金瓶梅 1 - 10集』、甘泉堂 (1831 - 1847)(各集とも、80×1)
- 十返舎一九没:1831、歌川国安没:1832
- 歌川雪麿作、貞斎泉晁画:『宇治拾遺煎茶友』、喜鶴堂 (1834)(60×1)
- 柳亭種彦作、歌川国貞画:『邯鄲諸国物語 1 - 8編』、栄久堂 (1834 - 1841)(編により、20×1、40×1、60×1)
- 墨川亭雪麿作、渓斎英泉画:『洗鹿子紫江戸染』、(1835)(60×1)
- 為永春水作、歌川貞秀画:『笠松峠薊花恋苧車』、(1835)(40×1)
- 二代目歌川豊国没 (1835)
- 山東京山作、歌川国貞画:『廓花勝山話』、福川堂 (1840)(30×1)
- 水野忠邦の天保の改革(1841 - 1843年)
- 美濃屋甚三郎(初 -5編)・楓川市隠(6編)・柳下亭種員(13 - 39、41編)・柳水亭種清(37 - 40、42編)作、歌川国貞(初 - 15編)・一雄斎国輝(16 - 28編)・一竜斎国盛(29 -31編)・一寿斎国貞(32 - 35、42編)・一勇斎国芳(36 - 38編)・一恵斎芳幾(38 - 41編)画:『児雷也豪傑譚』、甘泉堂 (1841 - 1865)(各編とも80×1)
- 為永春水没 (1841)、柳亭種彦没 (1842)
- 一筆庵主人作、渓斎英泉画:『心学教訓誰身の小槌』、(1844)(40×1)
- 一筆庵主人作、渓斎英泉画『絵本二十四孝』、(1844)(20×1)
- 万亭応賀作、渓斎英泉画:『忠臣国性爺将棋合戦』、(1844)(40×1)
- 万亭応賀作、渓斎英泉画:『教訓浮世眼鏡』、(1844)(60×1)
- 墨川亭雪麿作、渓斎英泉画:『紅粉絵売昔風俗』、(1845)(60×1)
- 半俗退士作、渓斎英泉画:『拍掌奇譚品玉匣』、(1845)(60×1)
脚注
編集参考文献
編集- 早稲田大学古典籍総合データベース
- 鈴木敏夫:『江戸の本屋 上』、中公新書 (1980) ISBN 978-4-12-100568-7