歌川国丸
江戸時代中期の浮世絵師
歌川 国丸(うたがわ くにまる、寛政5年〈1793年〉 - 文政12年11月23日〈1829年12月18日〉[1])とは、江戸時代中期の浮世絵師。
来歴
編集本姓は前田、通称文治[1]。伊勢屋伊八とも称す。歌川の画姓を称し、一円斎、五彩楼、軽雲亭、彩霞楼、翻蝶庵と号す[1]。初めは画名を文治と称した。
江戸の生まれで、父は本町二丁目で質屋を営む[1]。初代歌川豊国の門人で、田川鳳朗の門人であったこと以外の詳細は不明[1]。渓斎英泉編『無名翁随筆』には「風流に遊び、諸名家の交り深く、俳諧をたのしみとす、鴬立(田川鳳朗)の門葉なり」とあり、俳名を竜尾と称したという。
作画期は文化から文政にかけての頃で、文化6年(1809年)刊行の合巻『花鳥風月仇討話』の挿絵を初めとして、以後合巻の挿絵を数多く手がけた他、浮絵や美人画を残す[1]。一方で、特別に好評を博した作品はなかった[1]。享年37[1]。墓所は浅草新堀端厳念寺。
門人に歌川広重の門人ともされる歌川重丸、歌川年丸、歌川輝人がいる。初代豊国門下では歌川国安、歌川国直と並ぶ筆達者で、三羽烏と呼ばれた。
作品
編集版本挿絵
編集- 『花鳥風月仇討話』 ※合巻、文化6年刊行。益亭三友作。最終丁に「豊国門人十五歳 文治画」の署名あり
- 『吾嬬育露之荒事』(あずまそだちつゆのあらごと)三巻 ※合巻、文化9年(1812年)刊行。益亭三友作
- 『昔今猿人真似』(いまはむかしさるのひとまね)三巻 ※合巻、文化12年(1815年)刊行。関亭伝笑作
- 『亀がせ物語』三巻 ※文化12年刊行。感和亭鬼武作
- 『劇場仕入楓釣枝』 ※合巻、文政7年(1824年)刊行。欣堂間人作
- 『敵討忍笠時代蒔絵』 ※合巻、文政11年(1828年)刊行。柳亭種彦作
- 『侠容誧安売』 ※文政12年(1829年)刊行。欣堂作
- 『山洞流悪玉狂言』 ※合巻、文政4年(1821年)刊行。浮世喜楽作
- 『落咄機嫌上戸』 ※噺本、文化14年刊行。十返舎一九作
- 『敵討湊の曙』 ※合巻、天保2年(1831年)刊行。為永春水作、挿絵を柳川重信とともに描く。
錦絵
編集- 「浮絵江戸浅草観音之図」 横大判 ボストン美術館所蔵
- 「新版浮絵江戸東叡山花見之図」 横大判 ボストン美術館所蔵
- 「い勢古市 牛車楼」 大判 ボストン美術館所蔵 ※文化頃
- 「風流六玉川 岡本屋内重岡」 大判
肉筆画
編集- 「ほととぎすを聞く遊女図」 絹本着色 東京国立博物館所蔵
- 「老人の図」 紙本着色 たばこと塩の博物館所蔵
- 「酒蔵図」 紙本着色、扇面 ※蜀山人賛、文政頃