橘岑継
橘 岑継(たちばな の みねつぐ)は、平安時代初期から前期にかけての公卿。名は峯継・峰継とも記される。右大臣・橘氏公の長男。官位は正三位・中納言。
時代 | 平安時代初期 - 前期 |
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生誕 | 延暦23年(804年) |
死没 | 貞観2年10月29日(860年11月15日) |
別名 | 峯継、峰継 |
官位 | 正三位・中納言 |
主君 | 淳和天皇→仁明天皇→文徳天皇→清和天皇 |
氏族 | 橘氏 |
父母 | 父:橘氏公、母:田口継麿娘・真仲 |
兄弟 | 岑継、真直、岑雄、影子、時子、房子、忠子 |
子 | 氏継、茂生、清蔭? |
経歴
編集従兄弟(伯母が嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子)かつ乳兄弟(母が仁明天皇の乳母)にあたる正良親王(のち仁明天皇)に身近に仕え、その寵幸を得ていたという。天長6年(829年)内舎人に補せられたのち、蔵人・常陸少掾・相模掾を経て、天長9年(832年)従五位下・相模権守に叙任される。
天長10年(833年)3月の仁明天皇の即位に伴い、右近衛少将に抜擢される。同月、父の氏公の近衛大将への任官により左兵衛佐に遷任するが、同年11月左近衛少将に任ぜられた。その後、承和3年(836年)従五位上、承和6年(839年)正五位下、承和7年(840年)従四位下・右近衛中将、承和9年(842年)蔵人頭と近衛府の次官を務めながら急速に昇進し、承和11年(844年)参議に任ぜられ公卿に列す。仁明朝末の嘉祥2年(849年)には上位の参議3名(滋野貞主・藤原助・藤原長良)を越えて従三位・権中納言に叙任され、嘉祥3年(850年)の仁明天皇の崩御にあたっては御装束司を務めている。
文徳朝の斉衡2年(855年)正三位、斉衡3年(856年)中納言に叙任される。清和朝の貞観2年(860年)10月29日薨去。享年57。最終官位は正三位行中納言。
人物
編集身長が6尺(約182cm)以上で腰回りも非常に大きい偉丈夫である一方、緩やかで鷹揚な性格であった。少年の頃、愚鈍で文書を好まず、岑継が漢学の教養がないことを、「岑継は大臣の子であり天皇の外戚の家の子弟である。才識さえあれば、望めば公卿の位にも進むことができるのに、どうして全く書を読まないのか」と仁明天皇は嘆いたという。岑継はこのことを密かに聞いて深く恥じて、心を入れ替えて学問に精励し、師に付いて書伝を学び、ほぼ内容に通じるほどにまでなったという[1]。
官歴
編集注記のないものは『六国史』による。
- 天長6年(829年) 3月:内舎人[2]
- 天長7年(830年) 正月:蔵人[2]。正月:常陸少掾[2]。6月:相模掾[2]
- 時期不詳:正六位上
- 天長9年(832年) 正月7日:従五位下。正月:相模権守[2]
- 天長10年(833年) 3月:右近衛少将[2]。3月:左兵衛佐(父卿依大将任)[2]。11月:左近衛少将[2]
- 承和3年(836年) 正月7日:従五位上。正月11日:兼丹波守[2]。7月14日:賜伊勢国壹志郡空閑地130町
- 承和6年(839年) 正月7日:正五位下
- 承和7年(840年) 正月7日:従四位下。3月5日:兼兵部大輔、左近衛少将如故。6月10日:右近衛中将
- 承和9年(842年) 正月:蔵人頭[2]
- 承和11年(844年) 正月11日:参議、中将如元
- 承和13年(846年) 正月13日:兼右衛門督、相模守如故
- 承和14年(847年) 正月7日:従四位上
- 承和15年(848年) 2月14日:兼相模守、右衛門督如故
- 嘉祥2年(849年) 正月7日:従三位。正月13日:権中納言
- 嘉祥3年(850年) 3月22日:御装束司(仁明天皇崩御)
- 斉衡2年(855年) 正月7日:正三位
- 斉衡3年(856年) 11月3日:中納言
- 天安2年(858年) 8月27日:山作司(文徳天皇崩御)
- 貞観2年(860年) 10月29日:薨去