藤原長良

平安時代初期から前期の公卿。藤原北家。藤原冬嗣の長男。従二位・権中納言、贈正一位、太政大臣。長良流(高倉流)の祖。

藤原 長良(ふじわら の ながら/ながよし)は、平安時代初期から前期にかけての公卿藤原北家左大臣藤原冬嗣の長男。官位従二位権中納言正一位太政大臣文徳天皇外伯父で、陽成天皇外祖父

 
藤原 長良
時代 平安時代初期 - 前期
生誕 延暦21年(802年
死没 斉衡3年7月3日856年8月6日
別名 枇杷中納言
官位 従二位権中納言
正一位太政大臣
主君 嵯峨天皇淳和天皇仁明天皇文徳天皇
氏族 藤原北家
父母 父:藤原冬嗣
母:藤原美都子
兄弟 長良良房良方良輔順子良相良門良仁良世古子
難波渕子
藤原乙春藤原総継の娘)
国経遠経基経高経有子弘経淑子高子清経栄子
特記
事項
陽成天皇の外祖父
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経歴

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嵯峨朝末の弘仁12年(821年昇殿を許され、翌弘仁13年(822年内舎人に任ぜられる。弘仁14年(823年淳和天皇即位すると蔵人を務め、天長元年(824年従五位下叙爵し、翌天長2年(825年侍従に任ぜられる。この頃、春宮であった正良親王の信頼が篤く常に近侍していたという[1]

天長10年(833年)正良親王が即位(仁明天皇)すると正五位下左衛門佐に、承和3年(836年従四位下右馬頭と順調に昇進するが、仁明天皇即位後一年ほどで従五位から参議に至るなど急速に昇進した次弟・良房に官途で先を越されている。のち蔵人頭左兵衛督を歴任し、承和11年(844年)従四位上・参議に叙任され、良房に遅れること10年にして公卿に列した。

嘉祥3年(850年)甥の文徳天皇が即位すると正四位下次いで従三位、翌仁寿元年(851年)には正三位と続けて昇叙されるが、同年10歳以上年少の同母弟・良相が先に権中納言に任ぜられ、その後塵を拝す。仁寿4年(854年)、権大納言に昇進した良相の後任として権中納言に昇進。斉衡3年(856年)6月に従二位に叙せられるが、同年7月3日薨去享年55。最終官位は権中納言兼左衛門督従二位。

没後、娘・高子清和天皇女御となり、高子所生の貞明親王が即位(陽成天皇)したため、元慶元年(877年)に正一位左大臣、次いで元慶3年(879年)に太政大臣追贈された。

昇進は弟の良房、良相に遅れをとったが、両弟に比べ子女に恵まれ子孫は大いに繁栄した。特に三男・基経は良房の養子となり、その子孫からは五摂家を初めとして多数の堂上諸家を輩出した。また、中世以前においては、基経の父を養父である良房ではなく実父の長良であると捉える(長良を摂家の祖とする)観念が強く、『大鏡』の「大臣列伝」の配列に影響を与えている(藤原北家の嫡流を良房ではなく長良とする)とする説がある[2]

人物

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高潔な人柄で、心が広く情け深い一方で度量もあった。弟達に官途で先を越されたが、何のわだかまりもなく、兄弟への友愛は非常に深かった。士大夫に対しても常に寛容をもって接し、貴賎に関係なく人々に慕われた。仁明天皇の崩御時には、父母のごとく哀泣し続け、肉食を断って冥福を祈念したという。

若い頃に仁明天皇に近侍していた際、天皇から対等の交わりを許されたが、長良は常に礼装を崩さず、馴れ馴れしい態度を取る事はなかった[1]

官歴

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注記のないものは『六国史』による。

系譜

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尊卑分脈』による。

脚注

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注釈

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  1. ^ 『公卿補任』では2月29日
  2. ^ 『公卿補任』では天長11年(834年) 4月16日
  3. ^ 『公卿補任』では相模守
  4. ^ 『公卿補任』では伊予守
  5. ^ 『公卿補任』では8月10日
  6. ^ 『公卿補任』では嘉祥3年(850年)11月25日。

出典

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  1. ^ a b 『日本文徳天皇実録』斉衡3年7月3日条
  2. ^ 栗原弘「平安前期の養子」(『平安前期の家族と親族』(校倉書房、2008年) ISBN 978-4-7517-3940-2 第三部第二章)
  3. ^ a b c d e f g h 『公卿補任』

参考文献

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