植村 忠朝(うえむら ただとも)は、江戸時代前期の旗本、のちに上総勝浦藩の初代藩主。忠朝系植村家初代。

 
植村忠朝
時代 江戸時代前期
生誕 寛永7年(1630年
死没 元禄9年11月16日1696年12月10日
改名 左京(幼名)→忠朝
戒名 真覚院殿清岸源澄大居士
墓所 東京都文京区の無量院
官位 従五位下、土佐
幕府 江戸幕府 書院番頭大番頭
上総勝浦藩
氏族 植村氏
父母 父:植村泰朝
兄弟 泰治忠朝
正室:秋田俊季の娘
正朝忠元(四男)、娘(米津政武正室)、
娘(内藤信清室のち最上義雅継室)、
娘(井上正晴正室)
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寛永7年(1630年)、植村泰朝の次男として生まれる。兄泰治が病弱で家督を継ぐことを辞退したため、世子となった。万治元年(1658年)閏12月、従五位下、土佐守に叙任する。寛文3年(1663年)、父の死去により家督を継いで9000石の旗本となった。

寛文8年(1668年)8月に書院番頭に任じられ、寛文9年(1669年)2月に大番頭に任じられる。天和2年(1682年)4月21日、2000石を加増されて1万1000石の大名、上総勝浦藩主となった。

元禄9年(1696年)11月16日に死去、享年67。跡を嫡男の正朝が継いだ。