森谷克己
森谷 克己(もりたに かつみ、1904年1月1日[1] - 1964年11月17日[1])は、日本の経済学者。専門は経済史。
生誕 |
1904年1月1日 日本 岡山県上房郡上水田村 |
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死没 | 1964年11月17日(60歳没) |
国籍 | 日本 |
研究機関 |
京城帝国大学 愛知大学 広島大学 岡山大学 武蔵大学 |
研究分野 | 経済史 |
母校 | 東京帝国大学 |
生涯
編集1904年、岡山県上房郡上水田村(現・真庭市)生まれ[1]。1921年3月岡山県立高梁中学校を卒業[1]、同年4月第六高等学校文科乙類に進学[1]。1924年3月六高卒業[1]、同年4月東京帝国大学法学部に入学[1]。1927年3月東大法学部卒業[1]、同年6月京城帝国大学法文学部助手に任ぜられる[1]。1929年京城帝大助教授に就任[1]。1945年11月敗戦により引き上げ[1]。1946年5月名目のみ教授となるが自然退官[1]。1947年4月愛知大学法学部教授[1]。1952年5月広島大学政経学部教授[1]、1953年4月岡山大学法文学部教授[1]、1954年10月岡山大法文学部長に就任[1]、1955年10月学部長を辞任[1]、1960年4月武蔵大学教授[1]。在任中に死亡[1]。娘に子安美知子、息子に森谷宇一がいる。
研究内容・業績
編集朝鮮半島に対する経済史観
編集- 朝鮮に封建体制が存在しないと主張した福田徳三とは異なり、森谷は朝鮮に封建体制が未熟な形で部分的に存在したが、その未熟な封建体制が専制主義・官僚主義に転換するきざしがなく温存しており、専制主義・官僚主義が灌漑農業の基礎である治水・水利・村落共同体の孤立閉鎖性に基づいているため、アジアでは経済的進歩が極めて緩やかで停滞的であり、それは専制主義・官僚主義の基礎である治水・水利・村落共同体の問題に起因している[2]。それゆえ、これらの経済停滞が日本を除いたアジアを植民地・半植民地に転落させた要因であり、このような植民地・半植民地に停滞したアジアとは違い、封建体制を完成させた日本を宗主国の下に、八紘一宇の精神の基アジアが帝国主義から解放され、300年来の植民地・半植民地の隷属から脱して、停滞から脱出する躍進の時代となると主張した[2]。
評価
編集著書
編集- 『支那社会経済史』東京章華社、1934年[1]
- 『アジア的生産様式論』育生社、1937年[1]
- 『東洋小文化史』白揚社、1938年[1]
- 『東洋的生活圏』育生社弘道閣、1942年[1]
- 『東洋的社会の歴史と思想 中国・朝鮮社会経済史論』実業之日本社、1948年[1]
- 『社会科学概論』法律文化社、1953年[1]
- 『中国社会経済史研究 森谷克己遺稿論文集』子安美知子等、1965年
翻訳
編集脚注・出典
編集参考文献
編集- 宮川尚志「<批評・紹介>森谷克己著「中國社會經濟史研究」」『東洋史研究』第25巻第1号、東洋史研究會、1966年6月、115-118頁、CRID 1390853649764079360、doi:10.14989/152713、hdl:2433/152713、ISSN 0386-9059。
- 李萬烈 (2005年6月). “近現代韓日関係研究史―日本人の韓国史研究を中心に―” (PDF). 日韓歴史共同研究報告書(第1期) (日韓歴史共同研究). オリジナルの2015年9月8日時点におけるアーカイブ。