子安美知子
子安 美知子(こやす みちこ、1933年9月5日 - 2017年7月2日)は、日本のドイツ文学者、ドイツ語翻訳者。早稲田大学名誉教授。正五位。
人物情報 | |
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生誕 |
森谷 美知子 1933年9月5日 朝鮮・京城 |
死没 |
2017年7月2日(83歳没) 肺炎 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 東京大学教養学部 |
配偶者 | 子安宣邦 |
両親 | 森谷克己(実父) |
子供 | 子安文 |
学問 | |
研究分野 | ドイツ文学 |
研究機関 | 早稲田大学 |
主な受賞歴 | 瑞宝中綬章(2012年) |
ドイツの神秘家・教育者ルドルフ・シュタイナーの思想である人智学(アントロポゾフィー)と教育実践であるシュタイナー教育(ヴァルドルフ教育)を日本に紹介した。2004年3月まで早稲田大学語学教育研究所教授。
概要
編集朝鮮・京城生まれ。敗戦で引き上げて、父の郷里、岡山県上房郡上水田村に身を落ち着ける。その後、朝鮮から引き上げた大学教員たちが学校を作るというので、豊橋に転居。父は愛知大学に勤務、本人は当初、豊橋高等女学校、のち学校合併で時習館高等学校に学ぶ。父は経済学者の森谷克己[1]。古典学者の森谷宇一・阪大名誉教授は弟。夫は日本思想史家の子安宣邦、娘はエッセイスト・ミュージシャンの子安文。
1956年東京大学教養学部教養学科ドイツ分科卒業、大学院比較文学比較文化専修修士課程修了。大学院の修士論文のテーマは、『青鞜』の運動家・平塚らいてうである[2]。早稲田大学助教授、教授、2004年定年退任、名誉教授。
1970年代、最初は単身、次いで家族で西ドイツに留学し、娘の文をヴァルドルフ学校(シュタイナー学校)に通わせた。その体験を描いた『ミュンヘンの小学生』が話題となり、1976年、毎日出版文化賞を受賞。その後もシュタイナー教育に関する本を出し、紹介者として注目を集め、ブームの先駆けとなった。一方、批評なくただ紹介・宣伝し、教育学者としての自らへの影響も述べないのはどうかという批判もあった。[3]
ついでミヒャエル・エンデに関する著書も著し、彼の作品を翻訳した。エンデとは個人的に親交があった。
NPO法人「あしたの国まちづくりの会」理事。株式会社ルドルフ・シュタイナー・モルゲンランド取締役。「九条科学者の会」呼びかけ人も務めている[4]。2012年瑞宝中綬章受勲[5]。
著書
編集- 『ミュンヘンの小学生 娘が学んだシュタイナー学校』(中公新書) 1975
- 『ミュンヘンの中学生 シュタイナー学校の教育から』(朝日新聞社) 1980、のち朝日文庫
- 『魂の発見 シュタイナー学校の芸術教育』(音楽之友社) 1981、のち河出文庫
- 『シュタイナー教育を考える』(学陽書房、朝日カルチャーセンター講座) 1983、のち朝日文庫、のち学陽書房女性文庫
- 『日本の夏 ぼくはミュンヘンから自分を探す旅に出た』(晩成書房) 1983、のち朝日文庫
- 『私とシュタイナー教育』(学陽書房) 1984、のち朝日文庫
- 『西欧の親子関係 西ドイツ生活の体験から』(早稲田大学出版部) 1984
- 『エンデと語る』(朝日新聞社、朝日選書) 1986
- 『「モモ」を読む』(学陽書房) 1987、のち朝日文庫、のち学陽書房女性文庫
- 『ミュンヘン往き来 ふたつの国の娘と私』(学陽書房) 1990、のち朝日文庫
- 『幸福の法則 それは、もう一人の「私」にめざめること』(海竜社) 1994
- 『シュタイナー再発見の旅 娘とのドイツ』(小学館) 1997
共著・編著
編集翻訳等
編集脚注
編集- ^ 『中国社会経済史研究 森谷克己遺稿論文』子安美知子等 1965
- ^ 子安美知子先生 シュタイナー教育 日本メンタルサービス研究所
- ^ シュタイナー教育と子安美知子 マキペディア(発行人・牧野紀之)2013年12月02日
- ^ 「九条科学者の会」呼びかけ人メッセージ (2005.3.13)
- ^ “平成24年春の叙勲 瑞宝中綬章受章者” (PDF). 内閣府. p. 9 (2012年4月29日). 2016年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年4月1日閲覧。
- ^ “子安美知子さんが死去 早稲田大名誉教授”. Nikkei WEB. 日本経済新聞社. (2017年7月4日) 2017年7月4日閲覧。
- ^ 『官報』第7077号(平成29年8月8日)7頁「叙位・叙勲」
外部リンク
編集- 対談シリーズ シュタイナー教育 子安美知子先生 せたがや手技均整院