梨木神社
京都市上京区にある神社
梨木神社(なしのきじんじゃ)は、京都市上京区染殿町にある神社。旧社格は別格官幣社。明治維新に大きく貢献した三條實萬・三條實美父子を祭神とする。また境内には約500株のハギが植えられており、別名萩の宮とも呼ばれており、9月中旬から下旬には萩祭りがおこなわれる。
梨木神社 | |
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![]() 拝殿 | |
所在地 | 京都府京都市上京区寺町通広小路上ル染殿町680 |
位置 | 北緯35度1分30秒 東経135度46分2.5秒 / 北緯35.02500度 東経135.767361度座標: 北緯35度1分30秒 東経135度46分2.5秒 / 北緯35.02500度 東経135.767361度 |
主祭神 | |
社格等 | 旧別格官幣社 |
創建 | 1885年(明治18年) |
別名 | 萩の宮 |
例祭 | 4月18日・10月10日 |
地図 |
祭神
編集歴史
編集久邇宮朝彦親王の令旨により三条家の邸宅跡に三條實萬を祀るため社殿が造営される。1885年(明治18年)10月10日、社号は地名から梨木神社とされ、さらに別格官幣社の列格を受けて創建される。その後1915年(大正4年)、大正天皇即位を記念して、子の三條實美を合祀した。平安時代は藤原良房の娘染殿后の里御所・染殿第であった。
1948年(昭和23年)に神社本庁の別表神社に加列されている。
1977年に反君主制主義者によって爆破された(梨木神社爆破事件)[1][2]。
社殿の修復等の資金集めに苦慮していた2013年(平成25年)、境内の参道を含む土地をマンション開発業者に60年の定期借地権で貸し、その賃貸料を社殿の修復費用に充てることとしたが、その計画が神社本庁の承認を得られなかったことから神社本庁から離脱して独立し、単立神社となった。これにより、別表神社の列から当社は外された。
神社本庁の別表神社が神社本庁から離脱したのは気多大社以来のこととなる。
皇室の参拝歴
年月日 | 参拝者 | 備考 |
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1885年(明治18年)10月6日[3] | 山階宮晃親王 | 神霊鎮座祭 |
1885年(明治18年)11月15日[4] | 山階宮晃親王 | 国分貞胤宅の茶事の帰路 |
1886年(明治19年)4月15日[5] | 山階宮晃親王 | |
1887年(明治20年)2月2日[6] | 山階宮晃親王 | 京都御所参内の途次 |
1887年(明治20年)1月23日[7] | 有栖川宮熾仁親王 | |
1887年(明治20年)10月10日[8] | 山階宮晃親王 | |
1890年(明治23年)4月16日 | 山階宮晃親王[9]、有栖川宮熾仁親王[10] | 三条実万の三十年祭 |
1925年(大正14年)5月18日[11] | 皇太子裕仁親王(後の昭和天皇) | |
1928年(昭和3年)10月26日[12] | 閑院宮載仁親王 | 大礼使総裁として上洛 |
境内
編集- 本殿
- 中門
- 拝殿
- 神門
- 歌碑 - 上田秋成、湯川秀樹。
- 愛の木 - 桂の木の葉がハート形になっている為に名付けられたとされる。
- 天壌無窮の石碑 - 三條實萬が祈念していた軸の言葉を石に刻んだもの。
- 茶室 - 旧春興殿、虚中庵。
- 社務所
染井の水
編集境内の井戸の水は「染井の水」と呼ばれ、京都三名水の一つで、唯一現存している[注 1][注 2]。飲料可。藤原良房の館にあり染物に使っていた[14]。
祭礼
編集アクセス
編集関連図書
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ 『京都新聞』1977年1月3日、朝刊。
- ^ 『京都新聞』1977年1月13日、朝刊。
- ^ 山階会 1982, p. 510.
- ^ 山階会 1982, p. 512.
- ^ 山階会 1982, p. 520.
- ^ 山階会 1982, p. 534.
- ^ 高松宮家 編『熾仁親王日記』 巻4、高松宮家、1936年、461頁。NDLJP:1221430。
- ^ 山階会 1982, p. 545.
- ^ 山階会 1982, p. 614.
- ^ 高松宮家 編『熾仁親王日記』 巻5、高松宮家、1936年、316頁。NDLJP:1221442。
- ^ 毎日新聞社 編『毎日年鑑』 1926、毎日新聞社、1925年、144頁。NDLJP:2994755。
- ^ 京都府 編『昭和大礼京都府記録』 上巻、京都府、1929年、13頁。NDLJP:1190228。
- ^ a b 鉄道省『神まうで』1933年、92頁。NDLJP:1187400/84。
- ^ 小野芳朗『水の環境史「京の名水」はなぜ失われたか』PHP研究所〈PHP新書〉、2001年5月、208頁。ISBN 9784569616186。