梅村騒動
経緯
編集梅村速水の知事就任と改革
編集慶応3年の江戸幕府15代将軍徳川慶喜による大政奉還及び、同年12月9日(新暦1868年1月3日)の王政復古の大号令により、幕府領である飛騨国は飛騨県となる。すぐに名称は改称され、高山県となる。水戸藩士梅村速水(本名・沼田準次郎)は、27歳にして初代高山県知事に就任する。この就任は、美濃国揖斐の勤王志士、棚橋衡平と親交があったためその推挙で飛騨国出役を命じられたものと言われる[1]。
梅村は、孝子・節婦をほめ、生活に苦しむ者の救済方法として、高山県営の富札を発行してその金利を厚生面に使おうとするなどの改革を進める。また、財政の安定のために、日用品まで専売制にした上、各種の商売を許可割にして運上金と称する税金を徴収したことから、県民の生活は苦しくなってくる。また、新しく20 - 60人からなる郷兵を整えたことが火消しとの対立を招くこととなる。姦通罪を施行し、町方は娘たちを生贄に差し出したが、強姦した男性はほぼ罪に問われず、被害者の娘がかえって手鎖・晒し刑にされた。
旧幕府領であり、保守的な考えの強い県民と梅村知事の急激な改革は、両者の対立を招くこととなる。梅村は神官や僧侶を役所に集めて教諭方に任じ、各村々へ派遣して新しい政治に従うよう説得にあたらせ、事態の収拾に努めることとなる。
梅村騒動の発生
編集明治2年2月27日(新暦1869年4月8日)、高山県内の不穏な情勢を知った京都刑法官によって帰県が禁止されていた梅村であったが、同年2月29日(新暦4月10日)、梅村の京都出張の留守を機に、米の売下げ問題がきっかけとなり住民が蜂起する。これが梅村騒動の始まりとなる。高山八幡町では出火、同一之町村など(現・高山市)では憤怒した民ら数千人により、商法局・学校・新牢屋・苦使小屋などに対し打ちこわしが発生[2]し、これが飛騨一帯に飛び火することとなり、人々は、教諭方に任ぜられた神官や僧侶を梅村の一味と考えて、それらの居宅にも次々と襲いかかった。
同年3月5日(新暦4月16日)、梅村は騒動が起きたことを京都で知り、鎮定しようと飛騨へ向かう。7日(新暦4月18日)の夜、梅村は旧美濃国武儀郡関町(現・関市)に宿泊し、郡上藩などへ出兵を求める。8日(新暦4月19日)夜には金山宿[3]に泊まり、飛騨川を隔てた旧飛騨国益田郡下原郷下原町村[4]の村役人を召して、「帰県の際不心得の者あらば勝手次第討取るべき旨」を告げている[5]。3月9日(新暦4月20日)、梅村は兵士30人余りを率いて一旦は同郡萩原郷萩原町村(現・下呂市萩原町萩原)の戸谷権十郎宅に宿泊する。梅村の飛騨入国を知った群集は、高山から南下の道すがら梅村に加担した人の家を壊しながら、梅村を襲うために槍・銃・竹槍で武装して続々と萩原へ向かった。
3月10日(新暦4月21日)、高山を出発した憤民数千人は萩原に殺到する。梅村はこれらを追い返そうと兵士に命じて銃を発砲し、死傷者が発生する。さらに激高した憤民は火を権十郎宅に放ち、20戸余りが延焼する。同郷上村にて梅村は銃撃に遭い、肩を負傷する。身の危険を感じた梅村は兵士らに抱えられ、萩原の南隣の下呂を経由し、旧美濃国の加子母・付知両村(現・中津川市加子母、同付知町)から苗木県に逃げ延びる[5]。数百人の群集が後を追って田瀬村(現・中津川市福岡町田瀬)まで迫った。もし、この数百人の群衆が苗木まで攻めれば、梅村速水とその兵だけでなく、苗木県も巻き込んでの大惨事となります。絶体絶命です。
高山から攻めてきた数百人の大群衆に向かって、田瀬村の庄屋で造り酒屋を営む山田伝右衛門が立ち上がった。弱冠21歳の山田伝右衛門は、群衆たちに食事を振る舞い、ここまで追ってきた労をねぎらい、なんとかこれ以上攻めていくことはやめようと諭します。高山から来た人々は、飢えが満たされ、疲れを休め、横たわって道で眠りについた者もあったとか。山田伝右衛門と苗木県による再三の説得により、群衆を高山県に帰らしめた。これにより梅村は苗木県に保護されて難を避けることができた。 苗木県は刑法官監察司からの通達により、梅村と随従兵20名を苗木城下の雲林寺に移し、厳重に警護した。
梅村騒動のその後
編集この事態を重く見た政府は、直ちに監察司を高山に派遣して沈静化させる。3月17日(新暦4月28日)に梅村は知事を罷免され、騒動の責任をとらせて東京刑部省へ移送された。随従兵20名は高山県に引き渡された。翌年の10月26日(新暦1870年11月19日)、梅村速水は判決未決のまま東京獄中にて病死する(享年29、法名真珠院深光裕道居士)。
高山県は、明治4年に旧信濃国南部(伊那県、飯田県、高島県、高遠県、松本県、名古屋県信濃国部分〈尾張藩領〉であった木曽郡)と筑摩県となる。さらに明治9年筑摩県の旧高山県の地域は旧岐阜県と合併し、現在の岐阜県となる。
梅村騒動を題材とした作品
編集『情火』(1952年 松竹)