三笑亭芝楽
三笑亭 芝楽(さんしょうてい しばらく)は、落語の名跡。関連する名跡である柳亭 芝楽(りゅうてい しばらく)についてもこの項目で説明する。
三笑亭を紋の「三升」に見立て、その紋を用いる歌舞伎俳優の歴代市川團十郎ゆかりの演目「暫」をかけた名前といわれる。江戸と上方の二流ある。
当代は江戸で、「11代目柳亭芝楽」を名乗る。
上方
編集- 上方代数不明三笑亭芝楽 - (1841年 - 没年未詳)本名、原田 熊二郎。江戸の塗師職人で1866年から仮名垣魯文らの水魚連で声色をやっていた。のちに「八ッ足蛸」「佃屋白魚」を名乗った。一度浅草で寄席の経営に手を出した失敗し地方にドサ廻りを経て1874年に上方に移住。この頃にはすでに三笑亭芝楽を名乗っていたという。晩年先代同様に京都笑福亭の席亭をしていた。1915年以降消息不明。実の子は佃家白魚で、その妻女が後に女剣劇の元祖といわれる青柳華嬢。
- 自称初代三笑亭芝楽 - 後の上方6代目三笑亭可楽。
- 2代目三笑亭芝楽 - (生没年不詳)上方自称初代芝楽の門下であった2代目三笑亭吾妻の実子。明治中期頃の生まれ。初め小妻を名乗る。昭和初期、父と共に松旭会や三仲会の諸芸の一座を組織し活動していた。1938年、2代目笑福亭福圓の勧めにより、2代目芝楽を襲名。5代目笑福亭松鶴主催の「楽語荘」同人となり、主に「上方はなしを聴く会」や寺院などで小さな会を催した。戦後まで高座に上がった。没年は昭和年間とみられる。得意ネタは『質屋蔵』『浄瑠璃息子』『生貝』など。
江戸
編集江戸各代の代数に関しては不明な点が多い。
代数不明
編集本名 | 伊藤 栄三郎 |
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生年月日 | 1886年1月 |
没年月日 | 不詳年 |
師匠 | 三代目春風亭柳枝 三代目柳家小さん 五代目柳亭左楽 |
名跡 | 1.八代目春風亭傳枝(? - 1909年) 2.初代柳家小團治(1909年 - 1911年) 3.柳亭芝楽(1911年 - ?) |
柳亭 芝楽(りゅうてい しばらく、1886年1月 - 1930年1月~2月頃)は、落語家。
経歴
編集初め3代目春風亭柳枝門下で8代目にあたる春風亭傳枝を名乗る。1909年頃、3代目柳家小さん門下で初代にあたる柳家小團治となる。
1911年10月、5代目柳亭左楽門下に移り、師匠の前名である柳亭芝楽を襲名。声色、手踊りなどで名を売ったが、噺家芝居に出た際の借金で東京にいられなくなり、北海道小樽で幇間となる。以降の消息は不明。享年不詳。
9代目
編集九代目 | |
本名 | 伊藤 豊 |
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生年月日 | 1892年7月18日 |
没年月日 | 1962年11月20日(70歳没) |
死没地 | 日本・東京都北区王子駅 |
師匠 | 二代目柳亭左龍 七代目朝寝坊むらく 五代目柳亭左楽 |
名跡 | 1.柳亭龍松 (1910年 - 1911年) 2.朝寝坊夢松 (1911年 - ?) 3.立花家橘松 (? - 1917年) 4.三遊亭桂馬 (1917年 - 1921年) 5.三遊亭圓雀 (1921年 - 1923年) 6.柳亭魚楽 (1923年 - 1933年) 7.九代目朝寝坊むらく (1933年 - 1940年) 8.九代目柳亭芝楽 (1940年 - 1962年) |
活動期間 | 1910年頃 - 1962年 |
活動内容 | 落語家 |
所属 | 日本芸術協会 |
九代目 柳亭 芝楽(りゅうてい しばらく、1892年7月18日 - 1962年11月20日)は、落語家。本名:伊藤 豊。
略歴
編集初め1910年頃に二代目柳亭左龍門下で龍松。翌年七代目朝寝坊むらくの門下で夢松。大正に入り橘松と改名。1917年頃に三遊亭桂馬を経て、1921年2月に三遊亭圓雀で真打となる。
1923年5月に五代目柳亭左楽門下に移り、魚楽を経て、1933年10月に九代目朝寝坊むらくを襲名。1940年6月、九代目柳亭芝楽を襲名。
戦後は日本芸術協会に加入した。晩年は高齢による白内障を発症。1962年には肝臓病になり入院。その後退院するも、同年11月4日、友人宅を訪ねる途中、国鉄王子駅プラットフォームで、線路に落とした土産物の赤飯を拾おうと下りたところ、桜木町発南浦和行きの京浜東北線に轢かれ死去した。
人物
編集脚注
編集参考文献
編集- 『古今東西落語家事典』(諸芸懇話会・大阪芸能懇話会共編、平凡社、ISBN 458212612X)
- 『上方はなし』第24集 - 上方初代・2代目芝楽の肖像写真が掲載されている。