林永喜
林 永喜(はやし えいき)は、江戸時代初期の儒学者、歌人。兄林羅山と共に江戸幕府に仕え、初期の幕政に参画した。
時代 | 江戸時代初期 |
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生誕 | 天正13年(1585年) |
死没 | 寛永15年8月19日(1638年9月26日) |
改名 | 林信澄、永喜 |
別名 | 弥一郎(通称)、東舟、樗墩(号) |
墓所 | 市谷山伏町林氏墓地 |
官位 | 刑部卿法印 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家康、秀忠、家光 |
氏族 | 藤原氏利仁流林家[1] |
父母 | 林信時、田中氏 |
兄弟 | 林羅山、林永喜 |
妻 | 布施氏 |
子 | 林信貞、永甫 |
経歴
編集天正13年(1585年)、京都に生まれた[2]。兄林羅山に道学、歌道家に和歌を学び、慶長9年(1604年)9月9日藤原惺窩に初対面して啓発を受けた[2]。度々漢和聯句会に参加し、慶長13年(1608年)から一華堂乗阿と『源氏物語』について論争した[2]。
慶長13年(1608年)3月27日駿府城で徳川家康に拝謁し、江戸に出て徳川秀忠にも面会した[2]。慶長14年(1609年)長崎に派遣された[3]。慶長17年(1612年)江戸に出仕し、武蔵国瓦葺村550石を知行し、常に近侍して訴訟の裁定を行った[2]。慶長19年(1614年)と慶長20年(1615年)大坂の陣に随行した[2]。
元和2年(1616年)4月17日家康の死後、南光坊天海と上洛し、菊亭晴季と家康の神号下賜について協議した[2]。同年12月21日徳川秀忠の御咄衆に加わった[2]。寛永3年(1626年)上洛に随行し、9月二条城行幸の時、老中・執事の評議に参加し、『皇朝類苑』等を賜った[2]。寛永4年(1627年)3月3日羅山・以心崇伝と崇源院霊牌の書法、9月17日酒井忠世・土井利勝・崇伝・羅山とオランダ国王の書簡について協議した[2]。
寛永6年(1629年)6月父信時の葬儀のため上洛し、12月30日刑部卿・法印に叙された[2]。寛永7年(1630年)12月秀忠の看病に当たり、寛永9年(1632年)1月24日死去すると、天海・崇伝・羅山等と諡号について協議した[2]。同年12月自邸を焼失し、代地を賜った[2]。
寛永11年(1634年)羅山と日光東照宮・増上寺の年中行事について撰文し、寛永12年(1635年)春羅山の武家諸法度19条の起草に加わった[2]。寛永13年(1636年)12月朝鮮通信使の儀式・返答書簡について協議した[2]。
著作
編集門人
編集親族
編集脚注
編集参考文献
編集- 堀田正敦「林」『寛政重修諸家譜』 巻第771。NDLJP:2577474/73
- 友野霞舟 著「錦天山房詩話上冊」、池田蘆洲 編『日本詩話叢書』 第9巻、文会堂書店、1921年12月 。
- 佐村八郎「は」『増訂国書解題』六合館、1926年10月 。
- 林淳子、靳園元、北﨑勇帆、南雲千香子、田中草大「東京大学国語研究室蔵 黒川文庫目録〈語学之部〉た~わ」『日本語学論集』第13号、東京大学大学院人文社会系研究科国語研究室、2017年3月、28-52頁、doi:10.15083/00035480、ISSN 1880-0947、NAID 120006221604。
- 伊藤善隆「林永喜「寛永十五年の夏」和歌懐紙の紹介」『湘北紀要』第33号、湘北短期大学・図書館委員会、2012年、1-8頁、ISSN 0385-9096、NAID 110009602742。
外部リンク
編集- 一世弟林永喜の墓碑 - 碑像マップ