松平輝規
松平 輝規(まつだいら てるのり)は、江戸時代中期の大名。上野国高崎藩主。高崎藩大河内松平家3代。
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 天和2年6月12日(1682年7月16日) |
死没 | 宝暦6年2月29日(1756年3月29日) |
墓所 | 埼玉県新座市野火止の平林寺 |
官位 | 従四位下・右京大夫 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家重 |
藩 | 上野高崎藩主 |
氏族 | 大河内松平家 |
父母 | 父:松平信定、養父:松平輝貞 |
兄弟 |
長八郎、主税、斐章、求馬、信望、縫殿、内匠、数馬、外記、輝規、九鬼隆直、 竹之助、信応、秋元時朝室、米津政容室 |
子 | 輝高、三浦明次正室ら |
生涯
編集5000石を領した大身旗本・松平信定の十男。従兄である高崎藩主・松平輝貞の養子となる。
元文4年(1739年)、教訓書『見聞相染集(けんもんそうぜんしゅう)』を著わした。書名は実父信定が詠んだ歌「見つ聞きつ いにしへ今の かずかずに 思を染むる 言の葉の道」に由来する。別名を『愼怖記(しんふき)』ともいう。
年譜
編集系譜
編集父母
子女