米津政容
米津 政容(よねきつ まさよし)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。武蔵国久喜藩3代藩主。官位は従五位下・出羽守。
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 天和2年(1682年) |
死没 | 元文4年7月27日(1739年8月31日) |
改名 | 頼母(幼名)、政容 |
戒名 | 感月澄譚旛龍院 |
墓所 | 東京都江東区深川清澄町の本誓寺 |
官位 | 従五位下・出羽守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川綱吉、家宣、家継、吉宗 |
藩 | 武蔵久喜藩主 |
氏族 | 米津氏 |
父母 |
米津政武 米津政矩 |
兄弟 |
政矩、政容、伊沢政周、 大久保教寛正室、青木直宥正室 |
妻 |
松平信定娘 本多忠英娘 |
子 |
政崇、武田信村婚約者、 酒井忠陸正室、酒井忠陸継室、 近藤英用継室、青木直暢正室、 竹中元躊正室ら |
略歴
編集天和2年(1682年)、初代藩主・米津政武の次男として誕生した。元禄11年(1698年)に父が隠居した際、家督は長兄の政矩が継ぎ、政容には別に上総国・下総国国内で1000石を分与されて、寄合旗本に列した。その後は5代将軍・徳川綱吉の下で小姓並、次いで小姓として仕えていたが、政矩が元禄16年(1703年)に早世したため、その養子となって久喜藩の家督を継いだ。このとき、1000石は幕府に収公されたため、久喜藩は1万1000石となる。
綱吉からの寵愛は深く、綱吉が亡くなるまで小姓を務めた。その後も大番頭を経て、享保14年(1729年)11月に大坂定番に任じられたが、在任中の元文4年(1739年)7月27日、大坂で死去した。享年58。
跡を三男の政崇が継いだ。