松平忠愛 (上田藩主)
江戸時代中期の大名。信濃上田藩2代藩主。従五位下・左衛門佐、伊賀守、大内記。伊賀守系藤井松平家4代。松平忠周の三男。子に松平忠方(次男)
松平 忠愛(まつだいら ただざね)は、江戸時代中期の大名。信濃国上田藩2代藩主。官位は従五位下・左衛門佐、伊賀守、大内記。伊賀守系藤井松平家4代。
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 元禄14年9月13日(1701年10月14日) |
死没 | 宝暦8年3月6日(1758年4月13日) |
改名 | 新十郎・吉六(幼名)、忠殷(初名)、忠愛、忠弘 |
戒名 | 歓良院殿泰厳哲道大居士 |
墓所 | 東京都港区虎ノ門の天徳寺 |
官位 | 従五位下・左衛門佐、伊賀守、大内記 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗、家重 |
藩 | 信濃上田藩主 |
氏族 | 藤井松平家 |
父母 | 父∶松平忠周、母∶米倉昌明養女 |
兄弟 |
忠愛、鉄次郎、忠容、藤井忠陣、 藤井忠弘、広橋兼顕室、戸川安聡正室、 戸川安聡継室、八幡光清室、木村盛快室ら |
妻 |
本多忠能娘蓮球院 井越氏、杉浦氏、寺島氏、植村氏、大塚氏、松村氏、丑場氏、成瀬氏ら |
子 |
忠順、忠方、信敏、藤井忠成、信交、 亀次郎、忠亮、忠寄、藤井忠徹室、 板倉勝暁継室、広橋兼胤養女、 竹屋中癖室、向坂政興室、木村盛祥室、 久松定相室、木村盛祥室ら計27人 |
生涯
編集元禄14年(1701年)9月13日、信濃上田藩初代藩主・松平忠周の三男として誕生した。初名は忠殷(ただしげ)。母は米倉昌明の養女。
正徳4年(1714年)に従五位下・左衛門佐に叙位・任官する。享保13年(1728年)、父の死去により家督を継ぎ、諱も忠愛と改めた。このとき、父の遺言で弟の忠容に川中島5000石(塩崎知行所)を分知したため、上田藩は5万3000石となった。
しかし父と違って暗愚だった上、享保15年(1730年)には上田城大火や藩主居館が全焼し、寛保2年(1742年)には水害を被るなどの災害を受けて、幕府から5000石を借り受けて救済に務めた。ところが藩財政再建のため、元文5年(1740年)に検見法から定免法に税制を改正して重税を取り立てたり、茶屋遊びに溺れて藩政を顧みなかったりしている。
寛延2年(1749年)8月2日、家督を長男の忠順に譲って隠居し、大内記忠弘(ただひろ)と改名する。宝暦8年(1758年)3月6日、江戸で死去した。享年58。
系譜
編集父母
正室
- 蓮球院 ー 本多忠能の娘
側室
- 杉浦氏
- 井越氏
- 寺島氏
- 植村氏
- 大塚氏
- 松村氏
- 丑場氏
- 成瀬氏
ほか
子女
- 松平忠順(長男)生母は杉浦氏(側室)
- 松平信敏(三男)
- 松平忠方(四男)
- 藤井忠成(六男)
- 松平信交(七男)
- 松平亀次郎
- 松平忠亮
- 松平忠寄
- 藤井忠徹室
- 板倉勝暁継室
- 広橋兼胤の養女
- 竹屋中癖室
- 向坂政興室
- 木村盛祥室
- 久松定相室
- 木村盛祥室
正室の本多氏は、どうやら入嫁前に亡くなったようで、そのため忠愛は生涯継室を迎えなかったと言う。ただし側室は15人おり、27人の子女を儲けたと言う。
そのうち、長男の忠順は家督を継ぎ、次男の忠方は早世した。三男の信敏は分家の旗本5000石を継ぎ、四男、五男は夭逝した。六男の忠成は藤井姓を称し、七男の信交は兄・信敏の養子となって旗本家を継いだ。他家に嫁いだ娘は8人いる。