松平忠容
松平 忠容(まつだいら ただやす)は、江戸時代中期の大身旗本(旗本寄合席)。信濃上田藩主・松平忠周の五男で、兄の忠愛から更級郡川中島(塩崎知行所)5000石を分知された。
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 享保7年(1722年) |
死没 | 安永10年1月23日(1781年2月15日) |
改名 | 忠容→笠翁(隠居号)[1] |
別名 | 善十郎[2] |
戒名 | 笠翁[1] |
墓所 | 東京都港区虎ノ門の天徳寺[1]→谷中霊園 |
官位 | 従五位下・民部少輔[2] |
幕府 | 江戸幕府旗本 |
主君 | 徳川吉宗→家治 |
氏族 | 藤井松平家 |
父母 | 父:松平忠周、母:石井氏[1] |
兄弟 |
忠愛、鉄次郎、忠容、藤井忠陣、 藤井忠弘、広橋兼顕室、戸川安聡正室、戸川安聡継室、八幡光清室、木村盛快室 |
妻 | 小川氏[1] |
子 | 忠常[1] |
生涯
編集享保7年(1722年)、信濃上田藩主・松平忠周の五男として誕生した[1]。享保13年(1728年)年5月1日、父の忠周が死去。
享保13年(1728年)6月15日、上田藩主を継いだ兄の忠愛は、父の遺領から5000石を弟の忠容(当時7歳)に分知した[3]。このとき分知されたのが更級郡にあった飛地「川中島領」1万石[注釈 1]のうちの5000石で、塩崎村、今井村、上氷鉋村、および中氷鉋村の一部である[3]。知行地は「塩崎知行所」と呼ばれる[3][4]。現地任用の代官・割番などが政務にあたった[4]。
元文2年(1737年)8月25日に徳川家治の小姓となり[1]、8月28日に従五位下・民部少輔に叙任[1]。
宝暦6年(1756年)2月21日、昵懇の列に連なり、小姓組番頭格となった[1][5]。5月21日より西丸側役となり、諸事執啓を務める[1]。9月26日に執啓を[1]、10月18日に御側を[1]それぞれ免じられ、10月29日に致仕した[1]。致仕号は笠翁[1]。跡は忠常が継いだ。
安永10年(1781年)1月23日、60歳で死去[1]。江戸・西久保(現在の東京都港区虎ノ門)の天徳寺に葬られ、以後代々の葬地となった[1]。ただしその後改葬があったらしく、忠容の墓誌を刻んだ「松平祖先之墓」が谷中霊園に存在している[6]。
塩崎知行所
編集陣屋の置かれた塩崎村(現在の長野市篠ノ井塩崎)は[3][4]、『元禄郷帳』で村高2800石余という大きな村であったが[7]、他方、塩崎村は千曲川の洪水常襲地帯であり、享保16年(1731年)の「亥年の大水害」、寛保2年(1742年)の「戌の満水」などが大きな水害として記録されている[7]。
寛保3年(1743年)、忠容は蔵米知行に改められ、「塩崎知行所」は一旦は幕府領となっているが[4]、宝暦6年(1756年)に再度地方知行となり、塩崎知行所が復活する[4]。
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『寛政重修諸家譜』巻第八、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.48。
- ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第八、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.47。
- ^ a b c d e f 『信濃国更級郡川中島中氷鉋 青木家文書(1)』2012年、23頁。
- ^ a b c d e f “塩崎知行所”. 角川地名大辞典. 2022年5月28日閲覧。
- ^ 小林夕里子 2012, p. 10.
- ^ “松平忠容(まつだいらただやす)”. 谷中・桜木・上野公園路地裏徹底ツアー. 2022年5月28日閲覧。
- ^ a b “塩崎村(近世)”. 角川地名大辞典. 2022年5月28日閲覧。
参考文献
編集- 『寛政重修諸家譜』巻第八
- 『寛政重修諸家譜 第一輯』(国民図書、1922年) NDLJP:1082717/34
- 小林夕里子「近世中後期江戸幕府側衆の再検討 ―「江戸幕府日記」における就任記事の分析を中心に―」『早稲田大学大学院教育学研究科紀要 : 別冊』第20巻、第1号、2012年。