松平定綱
松平 定綱(まつだいら さだつな)は、江戸時代前期の大名。下総山川藩、常陸下妻藩、遠江掛川藩、山城淀藩、美濃大垣藩、伊勢桑名藩の各藩主。定綱系久松松平家初代。官位は従四位下・越中守。徳川家康の甥に当たる。
松平定綱像(長寿院蔵) | |
時代 | 江戸時代前期 |
生誕 | 文禄元年1月25日(1592年3月8日) |
死没 | 慶安4年12月25日(1652年2月4日) |
改名 | 亀松(幼名)→荒川定綱→松平定綱 |
別名 | 通称:三郎四郎 |
諡号 | 鎮国公 |
神号 | 鎮国大明神 |
戒名 | 大鏡院殿前四品玄蓮社定誉一法大居士 |
墓所 | 三重県桑名市東方の照源寺 |
官位 | 従四位下、越中守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家康→秀忠→家光→家綱 |
藩 | 下総山川藩主→常陸下妻藩主→遠江掛川藩主→山城淀藩主→美濃大垣藩主→伊勢桑名藩主 |
氏族 | 久松松平家→荒川氏→久松松平家 |
父母 | 父:松平定勝、母:たつ(奥平信昌養女) |
兄弟 | 松尾君、定吉、定行、定綱、阿姫、定実、紀為君、定房、菊君、定政、鶴君、玉君 |
妻 |
正室:浅野長政娘・智相院 曜安院 |
子 |
定次、定良、鶴姫、松平定経正室、 酒井忠正正室 |
生涯
編集松平定勝の三男として誕生した。母は奥平信昌の養女(奥平貞友の次女)・たつ。
慶長元年(1596年)、荒川弘綱(荒川義広子、3千石)の養子となり家督を継いだが、慶長4年(1599年)家康の命により荒川姓から松平姓に復した。
慶長7年(1602年)、初めて家康に拝謁し、2代将軍・秀忠に仕えるよう命ぜられた。慶長9年(1604年)、下総国山川領のうち5千石を賜わった。慶長12年(1607年)、従五位下・越中守に叙任。慶長14年(1609年)、計1万5千石に加増され大名となった。大坂の陣では書院番頭として出陣し、その功により元和2年(1616年)、常陸国下妻藩2万石に加増転封された。元和4年(1618年)に遠江国掛川藩3万石に転じ、さらに元和9年(1623年)には山城国淀藩に移され3万5千石を賜う。淀では淀城の修復を行うよう命じられた。寛永10年(1633年)に美濃国大垣藩6万石へ転じ、同地に菩提寺の徳秀寺を建立した。翌年、従四位下に昇進。さらに寛永12年(1635年)、5万石の加増を受けて、伊勢国桑名藩に入る。
慶安4年(1651年)、江戸で卒去した。享年60歳。江戸深川の霊巌寺で火葬され、遺骨は桑名照源寺へ送られ同地に埋葬された。寛政9年(1797年)に鎮国大明神の神号を追祠される。正室は浅野長政の娘で、寛永10年(1633年)に卒去しており、智相院殿光誉馨安樹清大姉の戒名を贈られ霊巌寺に葬られた。
定綱は同時代の文化人として知られた木下勝俊や小堀政一、林羅山らと交流があり、定綱自作の詩歌が彼ら文化人の作品と共に『政餘雕玉』に掲載されている。
系譜
編集父母
正室
- 智相院 - 浅野長政の娘
側室
- 曜安院 - 浅井氏の娘
子女
参考文献
編集- 渡辺憲司『近世大名文芸圏研究』(八木書店)
脚注
編集関連項目
編集- 鎮国守国神社 - 定綱を祀る神社。