松平 信道(まつだいら のぶみち)は、江戸時代中期の大名丹波国亀山藩の第3代藩主官位従五位下采女正、若狭守紀伊守形原松平家13代当主。

 
松平信道
時代 江戸時代中期
生誕 宝暦12年1月22日1762年2月15日
死没 寛政3年8月18日1791年9月15日
改名 又七郎(幼名)、信道
戒名 天誉性山誠敬院
墓所 京都府亀岡市北古世町の光忠寺
官位 従五位下采女正、若狭守紀伊守
幕府 江戸幕府寺社奉行奏者番
主君 徳川家治家斉
丹波亀山藩
氏族 形原松平家
父母 松平信直松平光雄の娘
兄弟 信道信愛戸田光弘巨勢利和牧野成傑直温彦坂重教直義貞幹松平勝全正室、溝口直舊正室、太田資承正室
正室松平定静の娘
信彰
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略歴

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宝暦12年(1762年)1月22日、2代藩主・松平信直の長男として誕生。安永7年(1778年)12月、従五位下・采女正に叙任される。安永8年(1779年)に若狭守に遷任する。天明元年(1781年)閏5月27日、父の隠居により家督を継いだ。このとき、紀伊守に遷任する。翌年3月25日に桑田郡山本村に公儀筏役に関する朱印状を発行している[1]

幕命により禁裏警護や京都警護を務め、天明8年(1788年)3月の天明の大火の際には自ら藩士を率いて火消しに出動した[2]。4月に奏者番寺社奉行見習いを兼任する。6月には正式に寺社奉行になった。寛政の改革では松平定信の側近として幕政に参与している。藩政においては、寛政元年(1789年)に「領中刑律89条」という法令を制定している。

寛政3年(1791年)8月18日に死去した。享年30。跡を長男・信彰が継いだ。

系譜

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出典

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  1. ^ 「山本村 公義筏役勤来付而 諸役免許之所如先規 不可有相違筏之儀 弥入精可相勤者也 天明二年 三月廿五日信道(朱印) 山本村 庄屋」(文まんま)
  2. ^ 大邑潤三・塚本章宏・北原糸子「京都天明大火における大名火消の実態」(『京都歴史災害研究』14号、2013年3月)