東郷 吉太郎(とうごう きちたろう、旧字体東鄕吉太郞1867年1月19日慶応2年12月14日) - 1942年昭和17年)10月26日[1])は、日本海軍軍人。最終階級は海軍中将東郷重弘の次男、東郷重友を家祖とする東郷氏8代目当主。東郷平八郎元帥の甥に当たる。

東郷吉太郎

経歴

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薩摩藩士東郷実猗の息子として生まれる。1886年12月、海軍兵学校13期生)を卒業し、1888年11月に海軍少尉任官[1]日清戦争では「大島」分隊長として出征した[2]。その後、「松島」砲術長、「富士」砲術長、「初瀬」回航委員(英国出張)、「操江」艦長、皇族附武官(依仁親王附)などを歴任[1]

日露戦争時は、「朝日」副長として日本海海戦などに参戦[2]。「高雄」艦長、「和泉」艦長、「見島」艦長、「笠置」艦長、横須賀海軍工廠検査官、台湾総督府海軍参謀長などを経て、1912年12月、海軍少将に進級[1]海軍砲術学校長、第一戦隊司令官を歴任。日独戦争では臨時南洋群島防備隊司令官として出征した[2]

1916年12月、海軍中将となった。鎮海要港部司令官兼臨時建築部支部長、海軍将官会議議員を務め、1919年12月に待命。1920年8月、予備役1926年12月、後備役を経て、1931年12月に退役した[1]

1922年、鹿児島第一中学(現・鶴丸高校)において「幕末期に日本沿岸に来航した異国船」を論じた際、資料として名越左源太の日記『見聞雑事録』の安政五年の項に描かれた、奄美大島子宿村沖に現れたアメリカ船のスケッチを提示する。同席していた教諭で生物学者の永井亀彦は、その絵が著者不明だった『南島雑話』の作風との酷似に気が付き、『南島雑話』の著者は名越左源太だと確信したというエピソードがある。[要出典]

栄典

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位階
勲章等

親族

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  • 父方の祖父 東郷実友
  • 母方の祖父 有村仁左衛門兼善
  • 父 東郷実猗
  • 義父・伯父 海江田信義(妻の父 母の兄 父の弟の妻の父)
  • 母 勢以(海江田信義の妹)[18][19]
  • 妻 海江田ハル(海江田信義の次女 いとこ)[18][19]
  • 叔父 東郷平八郎(父の弟 母の兄の娘の夫 妻の姉の夫)
  • 叔母 海江田テツ(海江田信義の長女 妻の姉)
  • 妹の夫 内田政彦(佐世保市長)
  • 長男 東郷吉虎(陸軍中尉)
  • 鈴木義尾の妻 
  • 孫 東郷尚武(長男の息子 東京都職員)

東郷家と海江田家は三重結婚でつながっている。有村仁左衛門兼善の二女・勢以(海江田信義の妹)は東郷実猗と結婚。勢以の仲立ちで、東郷平八郎は海江田信義の長女・テツと結婚。さらに、東郷吉太郎(勢以の息子)は海江田信義の次女・海江田ハルと結婚。

脚注

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  1. ^ a b c d e 『日本海軍史』第9巻、321-322頁。
  2. ^ a b c 『日本海軍将官辞典』255頁。
  3. ^ 『官報』第2539号「叙任及辞令」1891年12月15日。
  4. ^ 『官報』第2875号「叙任及辞令」1893年2月1日。
  5. ^ 『官報』第3725号「叙任及辞令」1895年11月27日。
  6. ^ 『官報』第4562号「叙任及辞令」1898年9月12日。
  7. ^ 『官報』第5846号「叙任及辞令」1902年12月26日。
  8. ^ 『官報』第3729号「叙任及辞令」1907年12月2日。
  9. ^ 『官報』第159号「叙任及辞令」1913年2月12日。
  10. ^ 『官報』第1324号「叙任及辞令」1916年12月29日。
  11. ^ 『官報』第2417号「叙任及辞令」1920年8月21日。
  12. ^ 『官報』第3838号・付録「辞令」1896年4月18日。
  13. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1895年12月18日。
  14. ^ 『官報』第6573号「叙任及辞令」1905年5月31日。
  15. ^ 『官報』第7771号「叙任及辞令」1909年5月24日。
  16. ^ 『官報』第1096号「叙任及辞令」1916年3月30日。
  17. ^ 『官報』第2660号「叙任及辞令」1921年6月14日。
  18. ^ a b 海江田家(鹿児島県): 閨閥学
  19. ^ a b 澤田和一『有村家の人々』翼賛出版協会、1944年。鹿児島県立図書館

参考文献

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  • 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第9巻、発売:第一法規出版、1995年。
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。