東大安田講堂事件

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東大安田講堂事件(とうだいやすだこうどうじけん)は、全学共闘会議(全共闘)および新左翼の学生が東京大学本郷キャンパス安田講堂を占拠していた事件と、大学から依頼を受けた警視庁が約8500人もの機動隊を導入して1969年昭和44年)1月18日から1月19日に封鎖解除を行った事件である。東大安田講堂攻防戦東大安田講堂占拠事件ともいう。

東大安田講堂事件
事件の中心地となった東京大学安田講堂 地図
場所 日本の旗 日本 東京都文京区本郷 東京大学本郷キャンパス安田講堂
座標
北緯35度42分48.3秒 東経139度45分44.0秒 / 北緯35.713417度 東経139.762222度 / 35.713417; 139.762222座標: 北緯35度42分48.3秒 東経139度45分44.0秒 / 北緯35.713417度 東経139.762222度 / 35.713417; 139.762222
日付 1969年1月18日 - 1月19日 (日本標準時)
攻撃側人数 警視庁機動隊約8500人
武器 火炎瓶角材手製爆弾
負傷者 警察官710(うち重傷31)
活動家47(うち重傷1)
犯人

逮捕者457人
東大全学共闘会議(東大全共斗)
日大全学共闘会議(日大全)
法学部闘争委員会(法斗委)
東京大学全学闘争連合(全斗連)
社会主義学生同盟(社学同)
安保粉砕共闘会議(安保共斗)
学生解放戦線(解放戦線)
マルクス主義学生同盟(中核派)
マルクス主義学生同盟(革マル派)
社会主義青年同盟全国学生班協議会プロレタリア国際主義派(学生インター)
プロレタリア軍団全国学生評議会(プロ軍)
日本社会主義青年同盟(解放派)
全国反帝学生評議会連合(反帝学評)
社会主義学生戦線(フロント)

全国自治会共同闘争会議(自治会共斗)
動機 インターン制度廃止にともなう登録医制度への反発
防御者 全学共闘会議2000人前後[注釈 1]
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事件の背景

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1960年代後半、ベトナム戦争が激化の一途をたどっていた。また、1970年(昭和45年)で期限の切れる日米安全保障条約の自動延長を阻止・廃棄を目指す動きが左派陣営で起きていた。これに伴い学生によるベトナム反戦運動第二次反安保闘争が活発化した。それと時を同じくして、高度経済成長の中、全国の国公立・私立大学においてはベビーブーム世代が大量に入学する一方で、ときに権威主義的で旧態依然とした大学運営がみられた。これに対して学生側は授業料値上げ反対・学園民主化などを求め、各大学で結成された全共闘や、それに呼応した新左翼の学生が闘争を展開する大学紛争(大学闘争)が起こった。

全共闘の学生達は大学当局との「大衆団交」(団交)で自分たちの主張を唱え、それが認められない場合は大学構内バリケード封鎖という手段に訴えた。学園紛争は全国に波及し、最盛期では東京都内だけで55の大学がバリケード封鎖に入り社会問題に発展していった。

事件発生までの経緯

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その中で、東京大学においては医学部自治会および青年医師連合(卒業生が所属)が1968年(昭和43年)1月下旬より登録医制度反対などを唱え、通称「インターン闘争」に始まる東大紛争(東大闘争)を展開した。

これに対して大学側は3月11日に「医局員を軟禁状態にして交渉した」として17人の学生の処分を発表したが、その中に明確にその場にいなかった1人が含まれており、このことが学生側の更なる怒りを招くこととなる。

3月12日に医学部総合中央館を、3月27日安田講堂を一時占拠し、翌日予定されていた卒業式も中止された。3月26日には「医闘争支援全東大共闘連絡会議」が他学部も含めた学生有志によって結成され、卒業式阻止の主体となった[2]。しかし、この段階では日本共産党日本民主青年同盟、「民青」)系の自治会中央委員会や学内の七者連絡協議会は、闘争に対して批判的な立場を取ったため、全学の自治会には闘争は波及していなかった[2]

医学部では新学期になってもストライキが継続していたが、事態は膠着し、6月15日に医学部の「全学闘争委員会」が安田講堂を再度占拠した。大学当局の大河内一男東大総長は2日後に機動隊を導入しこれを排除したが、これに対して全学の学生の反発が高まり、7月2日、安田講堂はバリケード封鎖された。

その3日後に「東大闘争全学共闘会議」(全共闘)が結成される。以後、大学当局は打開を図ったが更に全共闘や新左翼学生の反発を招き、東大全学部のこれらの組織に属する学生主導によるストライキ[注釈 2]や、主要な建物多数の封鎖が行われた。11月には大河内総長以下、全学部長が辞任した。

これらの全共闘や新左翼の学生による暴力行為や、9月30日日大紛争日本大学闘争)での大衆団交を受けて、佐藤栄作政権が動き出す[注釈 3]11月22日、全学バリケード封鎖に向けて全共闘系7千名、阻止する日共(民青)系7千名が全国から集まり、にらみあう。

全共闘系内部においては早稲田革マルの藤原が中心となって、全学バリケード封鎖反対を各派に恫喝的に説得する。結果的に全学バリケード封鎖は中止となり、背景を知らない学生の一部では、戦時中のレイテ沖海戦の史実と絡めて、「栗田艦隊謎の反転」と語られる。

11月22日以後

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大河内総長の後任として法学部の加藤一郎教授が総長代行として就任し、1969年(昭和44年)1月10日、国立秩父宮ラグビー場にて「東大七学部学生集会」を開催。民青系や学園平常化を求めるノンポリ学生との交渉によってスト収拾を行うことに成功したが、依然、占拠を続ける全共闘学生との意見の合致は不可能と判断し警察力の導入を決断、1月16日警視庁に正式に機動隊による大学構内のバリケード撤去を要請した。

封鎖解除

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封鎖解除1日目

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警視庁警備部は8個機動隊を動員し、1月18日午前7時頃医学部総合中央館と医学部図書館からバリケードの撤去を開始、投石火炎瓶などによる全共闘学生の抵抗を受けつつ、医学部工学部法学部経済学部等の各学部施設の封鎖を解除し安田講堂を包囲、午後1時頃には安田講堂への本格的な封鎖解除が開始された。

しかし、強固なバリケードと、上部階からの火炎瓶やホームベース大の敷石の投石、ガソリン硫酸といった劇物の散布など、学生の予想以上の抵抗に遭った。警察側の指揮官佐々淳行(警視庁警備部警備第一課長・当時)は「なるべく怪我をさせずに、生け捕りする」ことを念頭に置き封鎖解除を進めたために、全共闘学生への強硬手段をとれない機動隊は苦戦を強いられたと記している[4]。ただし、機動隊は催涙弾を装填したガス銃を学生に向けて発射しており[5]、そのために学生側には負傷者が複数発生した。また学生側の島泰三は、警察側の攻撃計画が「建物を攻略する城攻めには驚くほど無知」で「実にずさんだった」と評している[6][注釈 4]。午後5時40分警備本部は作業中止を命令。18日の作業は終了した。

なお、午後には神田地区(お茶の水付近)で「全都学生総決起集会」が呼応する形で開かれ、デモ隊を組織して街頭で機動隊と衝突している。デモ隊は東大を目指したが、本郷三丁目駅付近まで到達したのが限界で、午後9時には解散した[8]

封鎖解除2日目

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1月19日午前6時30分、機動隊の封鎖解除が再開された。2日目も全共闘学生の激しい抵抗があったが午後3時50分、突入した隊員が三階大講堂を制圧し午後5時46分屋上で最後まで暴力的手段をとり抵抗していた全共闘学生90人を検挙。東大安田講堂封鎖解除は完了し機動隊は撤収した。なお全共闘学生による投石や劇物の散布などにより多数の警察官が重軽傷を負った。

その後の新左翼諸党派のこの闘争に対する総括においては、「全共闘などの学生運動、大学闘争は世界革命において全く労働者などの現場の視点を捉えず、至ってプロレタリア性を帯びないプチブル的なものであった」と(主に共産同など)位置づけた。

関連人物

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大学側

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  • 加藤一郎 - 東京大学総長代行。のち、総長に就任。
  • 大内力 - 経済学部長、東京大学総長代行代理。
  • 向坊隆 - 工学部長、執行部員。のち、総長に就任。
  • 平野龍一 - 法学部長、執行部員。のち、総長に就任。
  • 藤木英雄 - 法学部教授、執行部員。
  • 林健太郎 - 文学部長、執行部員。1968年(昭和43年)11月4日から11月12日まで全共闘に監禁され事件となった(林健太郎監禁事件)。のち総長に就任。
  • 小林隆 - 医学部長。
  • 大田堯 - 教育学部長。のちにこの事件に対する責任感から大学を早期退官し、都留文科大学学長。

学生側

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警察側

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補足

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警視庁の記録によると、この日の封鎖解除で検挙された学生633人のうち、東大生はわずか38人であったという。ただしこれについては、全共闘側の関係者(今井澄、島泰三)から異論が出ており、島は公判起訴された東大関係者(54名)の数と、全体の逮捕者と起訴された者の比率等から、80名から100名程度の東大関係者が、東大構内に立て籠もったと推定している。

さらに、秩父宮ラグビー場における七学部学生集会粉砕闘争で、駒場共闘の中心メンバーが100人以上逮捕されていることも考慮しなければならない。他大学では明治大学中央大学日本大学法政大学の大学生が多かった。また高校生で唯一、神奈川県立相模原高等学校の高校生が検挙されている。

東大全共闘の一部と革マル派は、封鎖解除前日の17日「兵力温存」を理由に大学構内から脱出、当日抵抗していたのは他セクトと地方を含む他大学からの応援部隊が中心であった。革マル派は、後日他セクトから「日和見主義」などの批判を受け、他セクト(特に中核派)との対立を深める結果となった。

東大紛争期間中には、構内の建物を占拠した学生によって、丸山眞男をはじめとする碩学が吊し上げられたり、教授室などが滅茶苦茶に破壊され、明治以来の貴重な原書が燃やされてストーブ代わりになるなどの蛮行がなされた。理学部二号館を占拠した学生は、1968年12月24日の乱闘に際して、地質鉱物学科の鉱石標本や化石標本などを武器として投じ、紛失させた[10][注釈 5]

事件の影響で、1969年(昭和44年)の東京大学の入学試験は中止され、次年度の入学者は0人となった。このため、東京大学を志願していた高校3年生及び浪人生は、京都大学一橋大学などの他難関大学の入試を受けるか、来年度の東大入試の為に浪人生活を選ぶかの二択を余儀なくされた。

全共闘学生によるバリスト(バリケードストライキ)は、安田講堂事件以前から既に複数の大学で行われていたが、安田講堂陥落後は全国の多くの大学にバリストが広がることになる。

後に同事件の現場指揮担当をした佐々淳行は、早期解決のために、鉄球を付けたクレーン車で安田講堂の壁を破壊し、侵入経路を作る「鉄球作戦」を考案したことを様々な形で告白している。しかし、安田講堂は文化遺産であるという認識が警察の上層部にあったため、この作戦は採用されなかったが、後のあさま山荘事件で、山荘の2階と3階を繋ぐ階段の壁を破壊するという目的でこの作戦が採用された。

裁判

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1969年(昭和44年)7月1日、安田講堂を占拠した裁判が2つのグループに分けて東京地方裁判所で開始。一方の裁判は拘置中の9被告が出廷を拒否し、保釈されていた3被告のみが出廷したが、開始早々、傍聴していた学生らと分離公判を批判して騒然となり、10人の弁護士とともに警官隊に拘束、退廷処分となった。もう一方の裁判は11被告全員が出廷せず、最初から欠席裁判となった[11]

最高裁判所刑事局によれば、最終的に607人が起訴され、一審で有罪判決を受けた者は590人(うち実刑147人)を数えた。1978年6月30日、最後まで裁判を続けていた11被告に対する上告審で最高裁判所第一小法廷は、一審、二審の有罪判決(懲役2年6ヶ月-懲役1年4ヶ月)を支持して被告側の上告を棄却する決定を下し、安田講堂事件の裁判は全て終了した[12]

その後の安田講堂

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紛争によって荒廃した大講堂は20年間に亘り、法学部文学部物置として使われていた(事務室は順次学生部などとして使われるなどしていた)。1989年平成元年)に大講堂の改修工事が完了し、こけら落としはスティーヴン・ホーキングの来日講演であった。それ以後、卒業式など全学的行事に使われるほか、公開講座も行われている。

講堂前の広場には中庭が造られ、地下には食堂が設置された。以前のように集会を開いて練り歩くことのできない場所となっている。

事件を題材にした作品など

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驚きももの木20世紀『東大安田講堂攻防戦』
1993年5月21日放送、朝日放送テレビ朝日系列
日本史サスペンス劇場特別版『東大落城』安田講堂36時間の攻防戦…40年の真相SP
2009年1月14日放送、日本テレビ。出演:陣内孝則金子賢宮地真緒[13]
NHKアーカイブス特集『安田講堂落城~“あの日”から40年 学生たちのその後~』
2009年1月17日放送、NHK総合テレビ[14][15]
宿命 1969-2010 -ワンス・アポン・ア・タイム・イン・東京-
2010年1月15日~3月12日放送、テレビ朝日系列。主演:北村一輝。事件に関わった男女を描いた楡周平の著書「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・東京」のテレビドラマ化[16]
アナザーストーリーズ 運命の分岐点『安田講堂落城~“あの日”から40年 学生たちのその後~』
2022年2月26日初回放送、NHK総合テレビ[17]
ぼくらの七日間戦争
1985年4月発行、角川書店

脚注

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注釈

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  1. ^ 渡辺眸によると、構内にいるのは、3割くらいが東大生で、あとは他校の学生や活動家だったという[1]
  2. ^ 10月12日に法学部がストに入ったことで、全学部が無期限ストに突入した。これらのスト決定に際しては民青系学生も含めた長時間の学生大会での議論を経ており、その過程ではどちらも絶対多数を取れずに議論・採決を繰り返す例も見られた[3]
  3. ^ 日大闘争では9月30日の団交で大学側の古田会頭は自己批判書に署名捺印し学生側の要求を受け入れたが、佐藤は翌10月1日に「団交は認められない。政治的問題として処理する」と発言。日大側は10月3日に団交での確認書を破棄した。
  4. ^ 島によると、安田講堂の正面は「あらゆる方向からの死角」であり、そこにしっかりした攻城機械を組み立てて押し寄せていれば、正面玄関のバリケードは簡単に解除できたはずだという[7]
  5. ^ 島泰三によると、この行為を行ったのは「日本共産党系の防衛部隊」であるとされる。

出典

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  1. ^ 土井大輔 (2018年7月13日). “安田講堂の陥落は「泣きじゃくって撮った」内側からみた東大全共闘”. DANRO. 朝日新聞社. 2020年9月12日閲覧。
  2. ^ a b 島泰三 2005, pp. 25–26.
  3. ^ 島泰三 2005, pp. 103–104.
  4. ^ 佐々淳行 1996, p. 222.
  5. ^ 島泰三 2005, p. 227.
  6. ^ 島泰三 2005, pp. 231, 234.
  7. ^ 島泰三 2005, pp. 247, 250.
  8. ^ 島泰三 2005, pp. 241–242.
  9. ^ 仙谷官房長官 「東大紛争で弁当運びしていた」と暴露される”. NEWSポストセブン (2010年10月26日). 2017年6月8日閲覧。
  10. ^ 島泰三 2005, pp. 171–174.
  11. ^ 「全弁護人を拘束 開廷五分で警官導入」『朝日新聞 夕刊』1969年7月1日、3版、11面。
  12. ^ 東大事件 十年裁判にケリ 最高裁十一被告の上告棄却『朝日新聞』1978年(昭和53年)7月1日朝刊、13版、23面
  13. ^ 東大落城 安田講堂36時間の攻防戦”. テレビドラマデータベース. 2020年9月30日閲覧。
  14. ^ NHKアーカイブス特集 「安田講堂落城~“あの日”から40年 学生たちのその後~」”. NHKクロニクル. 2020年9月30日閲覧。
  15. ^ NHKアーカイブス(番組) これまでの放送”. NHKアーカイブス. 2020年9月30日閲覧。
  16. ^ ドラマ「宿命1969−2010~ワンス・アポン・ア・タイム・イン・東京~」のあらすじ一覧”. ザテレビジョン. 角川書店. 2020年9月30日閲覧。
  17. ^ 「東大安田講堂事件 あのとき学生は何と闘ったのか」 - アナザーストーリーズ 運命の分岐点 - NHK”. 2022年9月9日閲覧。

参考文献

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  • 佐々淳行『東大落城―安田講堂攻防七十二時間』文藝春秋〈文春文庫〉、1996年1月10日。ISBN 9784167560027 
  • 島泰三『安田講堂 1968-1969』中央公論新社〈中公新書〉、2005年11月1日。ISBN 9784121018212 

関連項目

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外部リンク

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マスメディア

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