春好斎北洲
江戸時代の大坂の浮世絵師
来歴
編集松好斎半兵衛の門人でのちに葛飾北斎に入門したといわれている[1]。俗称治兵衛。初名は春好、後に春好斎、雪花亭と号す。大坂の椹木町、石屋橋東詰に住んだ。当初半兵衛門人として活動していたが文政元年(1818年)、春好斎北洲と改名し北斎が使った「よしのやま」の印を用いている。また翌文政2年刊行の北斎の絵手本『北斎画式』には、「摂陽浪花校合門人」として「雪花亭北洲」の名があり、以後の画風にも北斎風が窺えるという。ただし北洲が、北斎から実際に絵の指導を受けたかどうかは定かではない。
大判錦絵に限れば約300点を残したといわれ、上方では質量ともに最大量の役者絵を残した浮世絵師であった。北洲は流光斎如圭や松好斎の様式を受け継ぎ、それに役者が映える姿を強調する江戸の趣味を加味して、上方役者絵を完成に導いており、文政以降の上方絵の方向性を決定づけている。役者絵の中では、大首絵、舞台画に特色があり、読本、芝居根本などにも描いていた。文化6年(1809年)から天保3年(1832年)までにかけての作品が知られているが、文政期前半が北洲の最盛期で、半身像の大首絵に名品が多く見られる。他に門人の春蝶、春陽斎北敬などと2枚続の錦絵を合作したものもある。肉筆による役者絵も描いている。春曙斎北頂、春梅斎北英を始め春暁斎北晴、春旭斎北明、北心斎春山、春信及び彫師の嘉助など北洲の門人は多く、蘭英斎芦国系と上方の浮世絵界を二分する勢力を形成した。他にも北松、楳莚、春敬、春渚(春要)、画登軒春芝、春子、春錦、春郷が門人であったと推定されるが寡作の絵師が多かった。
作品
編集版本挿絵
編集- 『文月恨切子』 絵入根本 ※文化7年
- 『猿曳門出乃諷』 絵入根本 ※文化7年か
- 『傾城黄金鱐』 絵入根本 ※文政2年(1803年)
錦絵
編集- 「けいせい廓船諷 はしとみ両助・嵐吉三郎 女房おゆき・中山よしを」 細判 早稲田大学演劇博物館所蔵 ※文化7年正月、大坂角の芝居『けいせい廓船諷』より
- 「源五兵衛・中村歌右衛門」 大判 早稲田大学演劇博物館所蔵 ※文化10年8月、大坂中の芝居『新歌街紅摺』より
- 「金輪五郎今国・中村歌右衛門 おみわ・嵐小六」 大判 池田文庫所蔵 ※文政4年3月、角の芝居『妹背山婦女庭訓』より
- 「兵庫頭頼政・嵐橘三郎」 大判 早稲田大学演劇博物館所蔵 ※文政4年(1821年)8月、大坂北新地芝居『頼政鵺物語』より
- 「たばこ切の三吉・中村歌右衛門」 大判 早稲田大学演劇博物館所蔵 ※文政5年1月、中の芝居『けいせい染分總』より
- 「団扇当世競」 大判4枚 早稲田大学演劇博物館所蔵 ※文政7年5月、大坂堀江市ノ側芝居『芦屋道満大内鑑』より[1][2][3][4]
- 「お岩・三世尾上菊五郎」 大判2枚続 ※文政9年正月、角の芝居『いろは仮名四谷怪談』より
- 「石川五右衛門・中村歌右衛門」 大判 池田文庫所蔵 ※文政9年7月、中の芝居『木下蔭狭間合戦』より
肉筆画
編集作品名 | 技法 | 形状・員数 | 所有者 | 年代 | 落款・印章 | 備考 |
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二代目嵐吉三郎の忠兵衛 | 紙本着色 | 1幅 | 千葉市美術館 | |||
二代目嵐吉三郎の鳥居又助 | 紙本着色 | 1幅 | 千葉市美術館 | |||
芝翫舞台姿図 | 絹本着色 | 1幅 | 熊本県立美術館 | 落款「浪花 春好斎」/白文方印(印文不明) | 三代目中村歌右衛門(俳名芝翫)を描いたもの。「芝翫」の画賛あり | |
初代嵐璃寛像 | 絹本着色 | 1幅 | メトロポリタン美術館 | 1812年(文化9年) |
脚注
編集- ^ 『増訂浮世絵』には、「初め松好斎の門人で春好と称し、文政元年に北斎の門下となり、春好斎北洲と改めた」とある。