春好斎北洲

江戸時代の大坂の浮世絵師

春好斎 北洲(しゅんこうさい ほくしゅう、生没年不詳)とは、江戸時代大坂浮世絵師

春好斎北洲
ヒト
性別男性 編集
国籍日本 編集
母語表記春好斎北洲 編集
読み仮名しゅんこうさい ほくしゅう 編集
生年月日18世紀 編集
死亡年月日不明な値 編集
職業画家芸術家浮世絵師 編集
弟子春梅斎北英北心斎春山 編集
師匠松好斎半兵衛葛飾北斎 編集
活動地日本 編集
活動開始18101809 編集
活動終了1832 編集
作者の著作権状態著作権保護期間満了 編集

来歴

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松好斎半兵衛の門人でのちに葛飾北斎に入門したといわれている[1]。俗称治兵衛。初名は春好、後に春好斎、雪花亭と号す。大坂の椹木町、石屋橋東詰に住んだ。当初半兵衛門人として活動していたが文政元年(1818年)、春好斎北洲と改名し北斎が使った「よしのやま」の印を用いている。また翌文政2年刊行の北斎の絵手本『北斎画式』には、「摂陽浪花校合門人」として「雪花亭北洲」の名があり、以後の画風にも北斎風が窺えるという。ただし北洲が、北斎から実際に絵の指導を受けたかどうかは定かではない。

大判錦絵に限れば約300点を残したといわれ、上方では質量ともに最大量の役者絵を残した浮世絵師であった。北洲は流光斎如圭や松好斎の様式を受け継ぎ、それに役者が映える姿を強調する江戸の趣味を加味して、上方役者絵を完成に導いており、文政以降の上方絵の方向性を決定づけている。役者絵の中では、大首絵、舞台画に特色があり、読本、芝居根本などにも描いていた。文化6年(1809年)から天保3年(1832年)までにかけての作品が知られているが、文政期前半が北洲の最盛期で、半身像の大首絵に名品が多く見られる。他に門人の春蝶春陽斎北敬などと2枚続の錦絵を合作したものもある。肉筆による役者絵も描いている。春曙斎北頂春梅斎北英を始め春暁斎北晴春旭斎北明北心斎春山、春信及び彫師の嘉助など北洲の門人は多く、蘭英斎芦国系と上方の浮世絵界を二分する勢力を形成した。他にも北松、楳莚、春敬、春渚(春要)、画登軒春芝、春子、春錦、春郷が門人であったと推定されるが寡作の絵師が多かった。

作品

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版本挿絵

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  • 『文月恨切子』 絵入根本 ※文化7年
  • 『猿曳門出乃諷』 絵入根本 ※文化7年か
  • 『傾城黄金鱐』 絵入根本 ※文政2年(1803年)

錦絵

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肉筆画

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作品名 技法 形状・員数 所有者 年代 落款・印章 備考
二代目嵐吉三郎の忠兵衛 紙本着色 1幅 千葉市美術館
二代目嵐吉三郎の鳥居又助 紙本着色 1幅 千葉市美術館
芝翫舞台姿図 絹本着色 1幅 熊本県立美術館 落款「浪花 春好斎」/白文方印(印文不明) 三代目中村歌右衛門(俳名芝翫)を描いたもの。「芝翫」の画賛あり
初代嵐璃寛像 絹本着色 1幅 メトロポリタン美術館 1812年(文化9年)

脚注

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  1. ^ 『増訂浮世絵』には、「初め松好斎の門人で春好と称し、文政元年に北斎の門下となり、春好斎北洲と改めた」とある。

参考文献

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関連項目

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