星合顕行
この記事のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。 (2016年2月) |
星合 顕行(ほしあい あきゆき、承応3年(1654年) - 享保20年6月4日(1735年7月23日))は、江戸時代の旗本。北畠家の庶家である星合家の出身である。通称は庄蔵、七兵衛、伊左衛門[1]。官位は従五位下、摂津守[1]。法名は雄盛[1]。星合顕恒の次男、母は井戸重弘の娘。星合基顕の養子となる[1]。妻は松浦信正の娘、後妻は大岡清重の娘[1]。子に具郡、親輝、幸茂、道治、定親、助能、ほか女子4人[1]。
生涯
編集寛文5年(1665年)に初めて徳川家綱に御目見する[1]。延宝2年(1674年)に家督を相続し、小普請に就任[1]。延宝5年(1677年)には大番に列し、貞享元年(1684年)には小普請奉行となり、貞享2年(1685年)には隅田川の普請に功があって黄金を賜った[1]。同年には熱田神宮の社殿造営に参加、日光東照宮の修理も担当した[1]。
元禄2年(1689年)に、将軍の身の回りの世話を務める小納戸へ昇進、後に300俵を賜って職務を全うした[1]。元禄8年(1695年)、再び小納戸へ復帰、武蔵国久良岐郡と都筑郡合計800石へ領地替えとなった[1]。宝永6年(1709年)、徳川綱吉が死去し、旗本寄合席に列す[1]。東叡山において供養塔の普請を承るに際し、従五位下摂津守に就任する。同年、相模国鎌倉郡と武蔵国久良岐郡に300石を加増され、合計で1100石を知行する。
正徳3年の正月、駿府城の城壁修復を担い、褒美に時服、羽織、黄金を賜った[1]。享保2年(1717年)、小普請奉行となる[1]。享保11年(1726年)8月、前述の修復を担当した駿府城三の丸北外堀の塀が突然倒壊した[1]。これを工事の手抜きだと咎められ、幽閉されたが、同年12月には許されている[1]。享保15年(1730年)、槍奉行に就任し、その後の享保20年(1735年)に死去、享年82[1]。墓地は先祖星合具泰と同じ大圓寺[1]。
参考
編集- 「寛政重脩諸家譜. 第3輯」(1923年)