日系人

日本国外に永住権や国籍を持ち民族的なルーツを日本にもつ集団
日系から転送)

日系人(にっけいじん)とは、日本以外の移住し当該国の国籍または永住権を取得した日本人、およびその子孫のこと。2017年時点で約400万人存在すると推定されており[20]、世界に散らばる日系人のうち、3分の2はラテンアメリカに集中している[21]。日本に居住する日系人は約30万人存在する。日本人留学生や国外出張者など日本国外に在住する日本国籍者は在外日本人と呼ばれ約140万人存在する。

日系人
総人口
推定400万人
居住地域
ブラジルの旗 ブラジル2,000,000 [1]
アメリカ合衆国の旗 アメリカ1,550,875 [2]
カナダの旗 カナダ129,425 [3]
フィリピンの旗 フィリピン120,000 [4]
ペルーの旗 ペルー103,182 [5]
中華人民共和国の旗 中国102,066 [6]
オーストラリアの旗 オーストラリア94,942 [7]
メキシコの旗 メキシコ86,143 [8]
タイ王国の旗 タイ78,431 [9]
アルゼンチンの旗 アルゼンチン76,440 [10]
イギリスの旗 イギリス65,022 [11]
ドイツの旗 ドイツ42,266 [12]
大韓民国の旗 韓国41,717 [13]
フランスの旗 フランス36,104 [14]
シンガポールの旗 シンガポール32,743 [15]
マレーシアの旗 マレーシア24,545 [16]
ベトナムの旗 ベトナム21,819 [17]
中華民国の旗 台湾20,345 [18]
ミクロネシア連邦の旗 ミクロネシア連邦20,000 [19]
関連する民族
日系ブラジル人日系アメリカ人日系フィリピン人日系アルゼンチン人日系イギリス人日系ウルグアイ人日系エクアドル人日系オーストラリア人日系オランダ人日系カナダ人日系韓国人日系キューバ人日系コスタリカ人日系コロンビア人日系スペイン人日系スウェーデン人日系台湾人日系中国人日系チリ人日系ドイツ人日系ドミニカ人日系ニューカレドニア人日系ニュージーランド人日系パラオ人日系パラグアイ人日系ベネズエラ人日系ペルー人日系ボリビア人日系マーシャル諸島人日系ミクロネシア連邦人日系メキシコ人日系ロシア人

歴史

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中世・近世

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フィリピン日本人を描いた絵画 (c. 1590年)
朱印船日本人商人を輸送した
日本人町
朱印船貿易で日本人が移住した東南アジア諸港に日本人町が形成された。その最大のものはタイアユタヤ日本人町で、他にもベトナムホイアン(世界遺産)、マレー半島パタニ王国カンボジアプノンペンフィリピンマニラにも同様の小規模な日本人町があった。これらの日本人町は、江戸幕府鎖国政策により日本との往来が途絶えたため、現地に残留した。また朝鮮半島では中世に三浦倭館と称する日本人居留地があり、近世には釜山の草梁倭館となった。

近代・戦前

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日本フィリピン移民(1930年代)
フィリピンレイテ島占領中の日本軍(1945年)
フィリピンマニラ、大阪貿易会社(大阪バザール)のフィリピン日本人会社員(1930年代)
フィリピンマニラの大阪貿易会社(大阪バザール)の寮にいるフィリピン日本人会社員(1930年代)
大阪貿易会社(大阪バザール)のフィリピン日本人会社員がフィリピンの戦前のマニラで野球をする (1933年)
マニラ(1942年)の日本人学校でのフィリピン日本人”法人”会議
自転車でマニラに進入する大日本帝国陸軍部隊(1942年)
オートバイでマニラに進入する大日本帝国陸軍部隊(1942年)
フィリピンマニラの日系人バザール。左上から時計回り: 東京バザール(1941年), 都ホテルと東京バザール(1941年),日本バザール(1941年),神戸バザール在小林ビル(1940年)
フィリピンの日系人バザール。左上から時計回り: セブ市の日本バザール (1930-40年代),セブ市の大正バザール在YMCAビル (1930-40年代),ダバオ市の大阪バザールと柏原ホテル (1936年),マニラの大阪バザール (1934年)
 
1908年、ブラジルに最初の日本人移民をもたらした船の乗客リストの最初のページ。

明治時代から第二次世界大戦の敗戦まで、日本人北海道樺太ハワイ満洲朝鮮半島台湾南アメリカ北アメリカへと広く移住した時代は、日本が主権国家として国境を画定し、外国に触れ、を外国に求め、戦争とともにあった[25]第二次世界大戦直後までの日本は出生率が高く、政府は人口増加に比べた耕地や雇用の不足を、海外移民により緩和しようと考えた。ただし移民本人や故郷に居る家族・親族にとって、第二次世界大戦以前は一時的な出稼ぎの要素が強く、「故郷に錦を飾る」ことを目標とする者が大半であった。このため特に移民一世では、国籍の離脱・変更をしなかった者も多かった。一時的な出稼ぎと移民を区別すべきという意見もあるが、おおむね海外移民の嚆矢とされるのは、ジョン万次郎などごく少数の漂流民を除けば、明治元年(1868年)に「元年者」と呼ばれるハワイへの移民153名が、オランダ系のアメリカ人商人ユージン・ヴァン・リード 斡旋のもと、非合法(江戸幕府とイギリス人ブローカーの契約だったため、明治新政府から認められず、パスポート不所持のまま移民)ながら渡航したのが最初である。これとは別に、当時独立国であった琉球王国からの出稼ぎ移民も多数存在した。このため現在もハワイの日系団体は、本土系団体と沖縄県系団体は別個の組織として運営されている。その後政府公認として、1881年のハワイ国王カラカウアの来日を契機にした1885年のハワイ移民を皮切りに19世紀末以降本格化、第二次世界大戦後しばらくの間まで日本政府も積極的に関わって行われた。

ハワイ以外で移民が主に向かった先は、南北アメリカ大陸であった。1893年のグアテマラ移民をはじめとして、榎本武揚の提唱により1897年に35名がメキシコへ渡ってグアテマラ国境に近い南部のアカコヤグアに入植した「榎本移民」[26] をきっかけにラテンアメリカへの組織的移住が始まった[27]。移民先はアメリカ合衆国(特に西海岸カリフォルニア州ハワイ州)とブラジル(特にサンパウロ州パラナ州)が圧倒的に多い。1908年、日本政府と合衆国政府の間で紳士協定が結ばれ、日本からの移民制限、ハワイから米国本土への移民禁止措置が行われ、事実上既に移民した者の親族以外の渡航が不可能となった(親戚でなくとも、移民との結婚を前提に、いわゆる「写真花嫁」などとして渡航した女性はいた)。さらに1924年、排日移民法が施行され、いかなる形の新規移民も認められなくなって以降、第二次世界大戦前には、先述のブラジルのほか、ペルーアルゼンチンボリビアパラグアイ[28][29][30]ウルグアイ[28][29][30]チリへの移民も盛んに行われた。一時期はフィリピンへも移民が行われた。

第二次世界大戦前には、日本(旧:大日本帝国)が領有していた南樺太朝鮮半島台湾南洋諸島へ渡った者も多いが、これは日本領地内の移動と考える事もできる。法的には外国であった満州国への移住も、南北アメリカ州への移住と様相が相違していたともいえるだろう。これらの地域からは、日本が敗戦した1945年から数年間の引き揚げによって民間・軍属合わせて600万人を超えるとも言われる日本人はほぼ一掃された[31]。両親を失ったり、引き揚げの途中で家族とはぐれたりして一家離散を余儀なくされ、孤児となった一部の日本人年少者が現地人の家庭に引き取られ、現地人として養育された例もある(中国残留孤児も参照)。

だが、南洋諸島で居住していた日本人男性と現地人女性との間に生まれた子供は、そのまま米軍統治下に留まって米国籍を取る者が数多くいた。その後独立したパラオでは、クニオ・ナカムラなど日系人の政治家も多く、現在も日系人が大きな発言力を持っている。また数は少ないが、敗戦後にベトナムインドネシアに留まり、これらの国籍を取得した残留日本兵もいる。

アメリカ州への移民は主に農業に従事する人が多かった。大規模農業プランテーションでの小作のほか、日本国と受け入れ先国との取り決めにより一定の土地を自由に開墾する権利を与えられたというケースがよく見られる。しかし多くの場合、その土地は現地の人が開墾に二の足を踏む様な劣悪な場所であり、また流通市場の確保等の面において様々な困難・差別を受ける事も多く、初期の移民は白人地主に搾取される事も多かったため、成功に至れずに潰えてしまった者、帰国した者も少なくない。

それらの悪環境の中にあっても、日本人の特質とも言えるきめの細やかな管理が重要となる養鶏果実栽培等の分野を中心に徐々に成功する者も現れ、ブラジルでは大地主になる者も現れた。これらの成功者の功績等により、日系人は移民受け入れ国内でも一定の評価を得るに至り、"nikkei"(日系)と言う単語が認知される程になった所が多い。

戦後

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第二次世界大戦直後には沖縄県等の戦争の傷跡の深い地域から南米に移民する人が多かった。例えば、ボリビアには「オキナワ」と言う名前の日本人移住者が作った村がある。この移住事業にはGHQと駐留アメリカ軍の意向が強く働いたと言われている。

日本政府は、1956年にボリビアと移住協定を締結し、1959年にパラグアイと移住協定を締結し、1963年にアルゼンチンと移住協定を締結し、1963年にブラジルと移住・植民協定を締結するなど南米に移民を送り出した。1959年にパラグアイと締結された日本の国策による移住協定は、1989年に効力が無期限延長に改定され、85,000人の日本人が受け入れ可能となっている[32]

戦後の南米の移住者達には、日本政府の比較的手厚い支援があった。JICA(国際協力事業団、現国際協力機構)の南米での事業の大きな柱の一つは日系人移住者の支援にある。JICAによる日系社会支援は資金援助よりも、多数の農業専門家を派遣したり、日系社会青年ボランティア制度を運用する等と言った、人的・技術的な支援が主になっている。

一方で、日系人は日本人によって偏見の目で見られることもあった。1959年、日系人としてはじめてアメリカ合衆国下院の議員となったダニエル・イノウエが来日、岸信介内閣総理大臣と面談した際に、イノウエの「いつか日系人が米国大使となる日が来るかもしれません」という発言に対し、岸は「日本には、由緒ある武家の末裔、旧華族や皇族の関係者が多くいる。彼らが今、社会や経済のリーダーシップを担っている。あなたがた日系人は、貧しいことなどを理由に、日本を棄てた『出来損ない』ではないか。そんな人を駐日大使として、受けいれるわけにはいかない」と返答している[33]

移住者数は第二次世界大戦終結から1950年代にかけて、ベビーブームによって人口爆発が起こった事などから飛躍的に増加したが、この時に「土地がなくなる」などと言った危機感があり、国策的に移民が行われた。周到な準備がなされずに移民送出が行われたため、「棄民(きみん)」と呼称されることもある。しかし、日本が高度経済成長を遂げ、国民が豊かになった1960年代に移民希望者が減少し始め、外国に移住するメリットがなくなり、1980年代から1990年代にはごくわずかとなった。

近年

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1970年代末以降の「移民」は主に、海外への憧れによって海外移住を求める者がするものとされ、アメリカ合衆国(ニューヨーク市やカリフォルニア州)やヨーロッパの大都市(ロンドンパリなど)を中心に以前と比べるとかなり小規模ながらも行われた。この時代になると、交通機関、メディア・通信技術の発達、またビザなどの渡航に関する手続きが簡素になったため(主要国へビザなし観光渡航などが出来るようになった)海外の情報が大量に流入し、それに憧れる者が増えたためである。1970〜1980年代などに行われた、日本からの留学生が帰国せずに居留国にて永住権を取得する、または現地国籍を取得する行為は、通貨の価値バランスにも影響されて(1990年代初頭に1ドル80-100円時代があったため)1980年代末〜1990年代初頭の留学ブームで多少助長された。

しかしながら、バブル崩壊後から2010年前後には留学ブームの加熱自体がほぼ終息し、留学生の数は最盛期に比べかなり減少したため、現在の主な移民理由は外国人との結婚、親族の国への移民、1980年代の日本企業が海外に進出した時、外国で生まれた子供が成人し、日本国籍を選択しない場合、長年外国に住む帰国子女が日本になじめず、居留国に同化、移民するなどが主な理由である。

現在[いつ?]、日系人社会は、19世紀末から20世紀初頭に移民した所では3世〜5世が、戦後移民した所でも2世・3世が中心世代となってきている。日本国外にいる日系人を中心に日本語が読み書きできない、話せない日系人も珍しくなくなっている。特に、アメリカ州では、太平洋戦争下で、日系人の強制収容や、激しい差別が行われたため、日系人が移民先の国民である事・敵性外国人ではない事を国内に示すため、1930-1940年代生まれの3世以降には、わざと日本語を教えなかった家庭が多くあった事も影響している。

日本の国籍上の取り扱い

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日本国の国籍法は、1985年に改正されるまで父系血統主義をとっていた[34]。すなわち、父親が日本国民であれば子も日本国籍を得られるが、母親のみが日本国民である場合、子は日本国籍を得られなかった[34]。20世紀前半に日本から移民した1世のもとで生まれ、現地で結婚した日系2世の女性から生まれた子供(3世)は、日本国籍を得ていない[要出典]。またこの事情により日本国籍を得られなかった3世男子の子供(4世)も日本国籍を得られない。日本国の国籍法の父母両系血統主義の採用から30年近くが経過し、このような事情が存在していることを想像することは難しくなっているが、留意すべき点である[独自研究?]

日系人はしばしば複数の国籍を持っている。1985年以降、日本は国籍に関して主に「父母両系統血統主義」(親のいずれかが日本国民ならば日本国籍を取得できる)である[34]。一方で日本人が多く移住した北米・南米の多くの国は主に「出生地主義(生地主義)」(生まれた国の国籍を取得できる)を採っているためである。近年の改正により、出生地主義国も血統主義的な要素を、血統主義国も出生地主義的要素を統合する傾向がある。例えばカナダ人夫婦の子供は、カナダ国外で生まれてもカナダ国籍が与えられる。

生地主義の国で1985年以降に生まれた者は、両親のどちらかが日本国籍を保持している限り日本と出生国両方の国籍を持つことができる[34]。また生地主義の国ではなくとも、日本人と血統主義の国の人間との国際結婚であれば、生まれた子供が二重国籍を持つ可能性がある(イランなど父親のみの血統主義しか認めない国もある)。またそのような国際結婚家庭の子供が生地主義の国で生まれた場合(例えばペルー人と日本人の子供がアメリカ合衆国で生まれた場合)、子供は三重国籍となる。

ただし、中華人民共和国など一部の国では血統主義の規定が厳密である。例えば、出生した日本人と中華人民共和国籍保持者の子は、出生とともに中国籍を保有するか、日本籍を選択することを強いられる。仮にも日本人と中国人の親を持つ子供が両国に出生届を出して、両方の国籍を得ようとしても、日本の国籍を選択する意向がないか厳しく調査される。中国当局に外国籍の所持が発覚した場合、中国籍を剥奪されるため、中国人と日本人夫婦の子孫は日系人にはなりえたとしても、日本国籍と中国籍を持つ多重国籍になることはほぼあり得ない。

海外で出生の子供の出生届を日本の大使館総領事館に提出しなかったり、出生届に国籍留保の記入をしなかった場合は、両親とも日本人であっても子供に日本国籍は与えられない(ただし、養子でなく日本国民であった者の子の場合、日本に引き続き3年以上住所または居所が有れば、帰化手続きを取って日本国籍を取得することができる)。

日本の国籍法は、経過措置等を除き、多重国籍を防止するよう1984年に改正、1985年に施行されたため、基本的には22歳になるまでに国籍を選択しなければならないとされている[34]。しかし、日本国籍の選択の宣言をしても、他の国が多重国籍を権利として認めている場合にはその国籍は失われないため、多重国籍の状態でいられることになる。日本の国籍法は日本の国籍の選択の宣言をした場合、他国の国籍の離脱に努めることとなっているが、それには強制力は無く、また実際の運用上それを強力に要求した事例は知られていない。他国籍についてはあくまで「日本の国内法に基づき」「外国籍を放棄する」ことを「日本政府に対してのみ宣言」したと「日本政府が一方的にみなす」に過ぎず、当該「他国政府」に対して国籍を変動させるような拘束力を持たないからである。日本の国籍法は、多重国籍を認めている他国において日本国民の権利を行使する事や他国民の権利を行使することを禁じてはいない。

また、法改正前からの既得権者に対する経過措置として、みなし宣言者に対しては国籍法第15条の「国籍選択の催告」及び第16条の「他国籍の離脱の努力規定・外国公務員となった場合の日本国籍喪失規定」は適用されないこととなっている(既得権対象者であっても自主的に日本国籍を選択した人は第16条の対象にはなる)。このため、「日本政府からは『日本国籍を選択し外国籍を放棄することを宣言した』とみなされているものの、法的には日本国籍も外国籍も引き続き合法的に保有している」重国籍者が多数存在する。

一方、この改正以降に出生するなどして本人の志望によらずに日本と他国との重国籍となった者は、22歳になるまでの間に国籍の選択をしなければならないのは改正前からの重国籍者と同じである。ただし

  1. その期限までに選択しなかった場合に「日本国籍選択宣言したものとみなす」ようなどちらかに自動決着させる規定はなく、そのまま「未選択状態」が続く
  2. 選択をしなかった場合は国籍法第15条の「催告」規定の適用を受け日本国籍を失う可能性がある。
  3. 日本国籍の選択を宣言した場合は他国籍の離脱に努めることが求められる(あくまで努力規定)

など、改正前からの重国籍者とは異なり、規制が厳しくなっている(ただし、過去実際に第15条と第16条の手続が行われた例はない)。

なお、元々の制度として重国籍者を網羅的に正確に把握・登録するシステムが日本にはない(重国籍を自ら表明している著名人や自ら重国籍者であることを法務局等に届け出ている人のような個別ケースを除く)。このような「みなし宣言者」、「未選択者」、「日本選択宣言者」である日本人の中には日本の旅券と外国の旅券の両方、あるいは外国の旅券のみを持って日本での出入国手続に及ぶ者が存在する。このような場合、出入国管理及び難民認定法(入管法)第2条第2号の規定の建前から言えば重国籍者は「当然に日本の旅券で日本人扱いで出国・帰国手続をする」ことが求められることになる。実際には前述のように政府がそもそも誰が重国籍者かを把握しきれていないため、(重国籍者とは気づかれぬまま)外国旅券でそのまま外国人として手続ができてしまうケースもある。現実的な出入国手続の現場の対応としては、戸籍謄本その他の資料で確認の上、外国旅券に日本人用の出国・帰国証印(スタンプ)を押して「重国籍者」と漢字で付記し日本人の出国・帰国の記録として取り扱うこととなっている[35] が、特に日本からの出国で外国旅券のみの場合は日本国籍の確認に手間取り出発便に乗り遅れるなどの不便をこうむる可能性もある[36]

日本の国籍法の多重国籍に関するさらに詳しい内容は国籍法 (日本)#多重国籍者の国籍選択制度を参照のこと。

日本における在留資格と労働範囲

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日本には35万人の日系人が居住しているが、基本的にビザの問題は存在しない。1990年の入管法改正で日系2世や3世またはその配偶者は、就労活動には制限のない在留資格(日本人配偶者等もしくは定住者)が与えられており唯一「公認」された「合法的な非熟練外国人労働者」である。日本政府は、政策上、製造業や建設業、サービス分野での単純労働の外国人は受け入れないという方針を定めているが、(不法滞在者以外は)日系人が唯一間接的に合法化されたその種の労働力である。日刊ゲンダイはペルーのジャーナリストの話として、日系人になるとビザを取りやすいといったことでペルーでは闇取引で戸籍を購入する人が多く、ペルー史上最大の殺人犯のペドロ・パブロ・ナカダ・ルデナは不法に戸籍を購入したと報じた[37]モーニングバード小松靖は養子縁組によるものだと説明した[38]

日系人数

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海外日系人数(2022年)[39]
  ブラジル 1,900,000人
  アメリカ合衆国 1,484,186人
  ハワイ州 172,049人
  カナダ 121,485人
  ペルー 100,000人
  アルゼンチン 65,000人
  オーストラリア 36,000人
  フィリピン 33,000人
  メキシコ 20,000人
  ボリビア 11,350人
  パラグアイ 10,000人
  インドネシア 4,500人
  チリ 3,000人
  コロンビア 1,800人
  キューバ 1,100人
  ドミニカ共和国 800人
  ベネズエラ 800人
  ウルグアイ 350人
  エクアドル 300人

日本国籍を保持している場合、永住者として外務省が調査する在外日本人の海外在留邦人統計に出てくるが、2世、3世となると、国籍は離脱し、また、混血も多く正確な日系人数の把握は難しい。南洋諸島のパラオミクロネシア連邦マーシャル諸島では全人口の2割程度が日系人とされることもある。また、長らくペルー日系人口は8万人といわれてきたが、この調査は数十年前に行なわれたものであり、しかも当時、ペルー国外に住む日系ペルー人は調査対象とはならなかったうえ、日本人との混血をあまりカウントしなかった。これらの事実と、その後の自然増を勘案すれば、現在の日系人口は数十万に達している可能性もあるが、いずれも実数調査がなされていない。

著名な人物

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Category:日系人も参照。(名字の50音順)

あ行

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日系アメリカ人のジョージ・アリヨシ
 
女優モデル、デヴォン青木

か行

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マーシャル諸島共和国初代大統領のアマタ・カブア
 
歌手のジェロ

さ行

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フィリピンの大手飲食チェーン創業者エドガル・”インジャップ”・シア
 
俳優のジョージ・タケイ

た行

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な行

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は行

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ロシアの政治家イリーナ・ハカマダ

ま行

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ブラジルの格闘家リョート・マチダ

や行

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フィギュアスケート選手のクリスティー・ヤマグチ
 
モデルのアドリアナ・リマ

ら行

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フィリピン国民的英雄のホセ・リサール
 
ラヴフォックスカンセイ・ジ・セール・セクシーのボーカル。

わ行

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  • 若林兄弟() - 元プロアイスホッケー選手。カナダ移民の息子。
  • 若林忠志 - 元プロ野球選手、監督
  • 渡部満 - 元プロ野球選手

フィクション

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フィクションにおける「日系人」は、流暢な日本語を話す外国人らしい雰囲気をもった人物設定として利用される。例として、「MASTERキートン」の太一・平賀=キートン、「機動警察パトレイバー」の香貫花クランシー、「To Heart」の宮内レミィ、「ゴルゴ13」のゴルゴ13(デューク東郷)、「こちら葛飾区亀有公園前派出所」のジョディー・爆竜・カレンなど。

他に日系人を題材とした作品として以下が挙げられる。

脚注

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注釈

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  1. ^ ヤンマーサッカー部セレッソ大阪の前身)在籍時代、釜本邦茂Jリーグ初代キャプテン)とチームメイトだった。

出典

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  1. ^ en:Japanese_diaspora#cite_note-JP/BR-2
  2. ^ en:Japanese_diaspora#cite_note-3/
  3. ^ en:Japanese_diaspora#cite_note-4
  4. ^ en:Japanese_diaspora#cite_note-5
  5. ^ en:Japanese_diaspora#cite_note-7
  6. ^ en:Japanese_diaspora#cite_note-MOFA2022-8
  7. ^ en:Japanese_diaspora#cite_note-MOFA2022-8
  8. ^ en:Japanese_diaspora#cite_note-9
  9. ^ en:Japanese_diaspora#cite_note-MOFA2022-8
  10. ^ en:Japanese_diaspora#cite_note-10
  11. ^ en:Japanese_diaspora#cite_note-MOFA2022-8
  12. ^ en:Japanese_diaspora#cite_note-MOFA2022-8
  13. ^ en:Japanese_diaspora#cite_note-MOFA2022-8
  14. ^ en:Japanese_diaspora#cite_note-MOFA2022-8
  15. ^ en:Japanese_diaspora#cite_note-MOFA2022-8
  16. ^ en:Japanese_diaspora#cite_note-MOFA2022-8
  17. ^ en:Japanese_diaspora#cite_note-MOFA2022-8
  18. ^ en:Japanese_diaspora#cite_note-MOFA2022-8
  19. ^ en:Japanese_diaspora#cite_note-11
  20. ^ 海外日系人協会の資料 より在日日系人数、海外日系人数を合計。概数。アジア・ヨーロッパなどへの永住者や日系人は含まれていない。
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  22. ^ Boxer Codex”. Boxer mss. II (ca. 1590). 2019年12月7日閲覧。
  23. ^ 「慶長遣欧使節」派遣400周年」ニッポンドットコム財団
  24. ^ 「慶長遣欧使節」派遣400周年」ニッポンドットコム財団
  25. ^ 吉岡桂子 (2018年6月8日). “「越境者の政治史」書評 「移動」に焦点、「日本人」とは”. 朝日新聞. オリジナルの2020年3月26日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20200326222025/https://book.asahi.com/article/11605271 
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  27. ^ “日本と中南米(エピソード集)~遠くて近いアミーゴの国々~”. 外務省. オリジナルの2021年2月24日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210224182949/https://www.mofa.go.jp/mofaj/kaidan/kiroku/s_hashi/arc_96/nanbei/episode.html 
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  35. ^ “日本人出・帰国記録(EDカード)の廃止について”. 法務省. (2001年6月8日). オリジナルの2001年10月19日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20011019075741/http://www.moj.go.jp/PRESS/010608-1.html 
  36. ^ “国籍の選択について”. 法務省. オリジナルの2020年12月23日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20201223055433/https://www.moj.go.jp/MINJI/minji06.html 
  37. ^ “熊谷6人殺害 ペルー人容疑者の兄は17人殺した「死の使徒」” (日本語). 日刊ゲンダイ (日刊ゲンダイ). (2015年9月18日). オリジナルの2015年9月19日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150919151032/http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/newsx/164199/1 2015年9月19日閲覧。 
  38. ^ “熊谷6人惨殺!ペルー男なぜ日本名?日系人は優遇されて稼げる” (日本語). ジェイ・キャスト (ジェイ・キャスト). (2015年9月18日). https://www.j-cast.com/tv/2015/09/18245619.html?p=all 2015年9月19日閲覧。 
  39. ^ 海外日系人数 公益財団法人 海外日本人協会公式サイトより。

関連項目

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外部リンク

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