新庄城
新庄城(しんじょうじょう)は、山形県新庄市堀端町にあたる出羽国(羽前国)最上郡[2]新庄[3]にあった日本の城(中世の平城)。別名沼田城(ぬまたじょう)、鵜沼城(うぬまじょう)と呼ばれる。新庄市指定史跡[1]。
新庄城 (山形県) | |
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石垣 | |
別名 | 沼田城、鵜沼城 |
城郭構造 | 輪郭式平城 |
天守構造 | 不明 |
築城主 | 戸沢政盛 |
築城年 | 1625年(寛永2年) |
主な改修者 | 戸沢政盛 |
主な城主 | 戸沢氏 |
廃城年 | 1868年(明治元年) |
遺構 | 土塁、堀 |
指定文化財 | 新庄市指定史跡[1] |
位置 | 北緯38度46分01.27秒 東経140度17分36.61秒 / 北緯38.7670194度 東経140.2935028度 |
地図 |
概要
編集新庄城は、新庄藩6万石(のちに6万8200石)の本拠として寛永2年(1625年)、戸沢政盛により現在の山形県新庄市堀端町に築城された平城。本丸の南側に出丸のように小さな二の丸が並列状に配置され、その外側を三の丸が囲む形である。本丸及び二の丸、三の丸の堀の水は城の北を流れる差指野川(さすのかわ)から引かれた。三の丸堀(二の堀)の反対側に当たる現在の堀端町は、家老などが住む侍屋敷があった。 最上氏改易後に入封した戸沢政盛は当初真室城(鮭延城)に入城したが、手狭であることと、山城のための不便さから幕府に願い出て、当地に築城した。なお、縄張は同一時期に山形城に入封した鳥居忠政によるものである。
1636年(寛永13年)に、火災によって三層天守が焼失したが再建されなかった。
慶応4年(1868年)の戊辰戦争では戦闘の舞台となった。当初、新庄藩は奥羽越列藩同盟に参加していたが、久保田藩(秋田藩)が新政府側へ変節したのに同調し、奥羽越列同盟から離脱した。これに激怒した庄内藩は新庄藩へと攻め入り、庄内藩兵と新庄藩兵の間で攻城戦が行われたが新庄城は陥落して、その大部分が焼失した。当時の藩主、戸沢正実は久保田藩へ落ち延びた。新庄城は同年のうちに廃城となった。
現在は、新庄城の建物のほとんどが失われ、本丸址に戸澤神社、護国神社、稲荷神社、天満神社がある。このうち、天満神社は城を創建した戸沢氏の氏神で、藩政時代から現存している唯一の建造物であり、県指定文化財(昭和63年(1987年)8月25日指定)になっている。新庄市老人福祉センターや新庄市保健センター付近では三の丸堀跡も確認できる。本丸跡、二の丸跡を含めた城跡は最上公園として市民に開放されており、新庄市出身の折下吉延による心字池がある。
また、最上地方随一の桜の名所として知られ、毎年4月20日前後に見頃を迎え、「カド焼きまつり」の会場となる。夏は天満神社の縁の祭りである新庄まつりが開催される。
城郭
編集本丸には御殿(三層天守は落雷で焼失)、三の丸には藩の政庁が置かれた。
城下
編集城下町は羽州街道に沿って商家が集まり、城下各地に職人町が造られた。羽州街道は元々「東の道」と呼ばれて神室連峰の山裾を縫っており、城域から少々離れていたが、築城を機に城下を通るように変更された。同様に庄内地方からの道路も、本合海から新田川の川沿いを通って宮野、角沢、鳥越に至るルートであった(源義経の「東下り」もこのルートである)が、新庄藩によって長坂峠(現在の八向中学校前の坂)越えの道が開削され、福田、二軒(仁間)から城下へと向かう道になった。
現在も城下町当時の町割が残る地域があり、城下町によく見られるような曲がり道や丁字路が多い。
- 定期市が立つ町
- 五日町(南本町)、十日町(北本町)
- 馬市が立つ町
- 馬喰町(馬口労町) 藩主が馬で城外に出る「御馬出口」もここにあった。
- 職人町
- 鍛冶町
- 城下で最も栄えていた商家街
- 北本町、南本町 新庄城の正門に当たる大手門には、北本町と南本町の間から入る構造であった。
- その他
- 鉄砲町、御長柄町、茶屋町
- 街道
- 羽州街道
交通
編集脚注
編集関連項目
編集外部リンク
編集- 新庄城址(最上公園)(市指定史跡) - 新庄市ホームページ