新城和一
日本の文学者
新城 和一(しんじょう わいち、1891年(明治24年)5月15日 - 1952年(昭和27年)4月7日)は、日本の文学者。未来社に参加した詩人で、『白樺』同人でもあった。ドストエフスキー、バルザック、ロマン・ロランなどロシア文学、フランス文学の諸作品を翻訳した翻訳家でもあり、『真理の光』を著すなど評論家としても活動した。法政大学教授。真城倭一はペンネーム。
新城 和一 | |
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生誕 |
1891年5月15日 福島県若松町 |
死没 | 1952年4月7日(60歳没) |
出身校 | 東京帝国大学文科大学仏文科 |
職業 |
翻訳家、詩人、評論家 陸軍士官学校教官 法政大学教授 |
経歴
編集福島県出身で、会津中学、一高 第一部丁類を経て1915年(大正4年)に東京帝国大学仏文科を卒業。豊島与志雄は、高校、大学とも専攻を同じくした同級生であった[1]。一高時代から創作活動を始め、三木露風の未来社に詩「狂気」などを発表。露風系詩人[2]として知られるようになる。『白樺』がその理想主義的な人道主義への傾斜を深めた時期に同人となり[3]、評論『モオリス・バレス論』、創作『暴風の心』、評論『ドストイエフスキイ』を発表。室生犀星は『ドストイエフスキイ』に好意的であった[4]。公的な役職として陸軍教授を1941年(昭和16年)5月までの25年間務め[5]、また法政大学教授でもあった。後者は1933年(昭和8年)のいわゆる法政騒動で辞任している[6]。会津会会員[7]。
著書
編集ドストエフスキー関連
編集- 『ドストイエフスキー』洛陽堂、1916年
- 『ドストイエフスキーの一生と芸術』冬夏社、1921年
- 『ドストィエフスキィ人・文学・思想』愛宕書房、1943年
- 翻訳
- 『ドストイエフスキイ叢書 第一編』宝文社、1917年
- 『ドストイエフスキー感想及印象』洛陽堂、1919年
- 『ドストイェーフスキー全集第13巻』ドストイェーフスキー全集刊行会、1921年
- 『ドストイェーフスキー全集第15巻』冬夏社、1921年
- 『ド翁書簡集』冬夏社、1921年
バルザックの翻訳
編集- 『結婚の契約 ウウジェニイ・グランデエ』東京堂書店、1924年
- 『純愛』東京堂、1941年
- 『結婚・夫婦財残契約』多摩書房、1948年
- 『セラフイタ 光を呼ぶ女』東京堂、1948年
- 『ランジェ公爵夫人』東京堂、1949年
- 『谷間の白百合 上下』東京堂、1949-1950年
- 『従妹ベッド 上下』東京堂1950-1951年
ロマン・ロランの翻訳
編集- 『ロマン・ローラン全集第一巻』人間社出版部、1921年(植村宗一との共訳)
- 『信仰の悲劇』冬夏社、1922年
- 『ロマン・ローラン全集第三十巻』みすず書房、1950年
その他の翻訳
編集- ジャン=ジャック・ルソー『孤独な散歩者の夢想』新潮社、1920年
- エミール・ヴェルハーレン『触手ある都会 エミイル・ヴェルハレン詩集』洛陽堂、1920年
- ヴィクトル・ユーゴー『ユウゴオ詩集第一巻抒情詩論』那須書房、1936年
- ポール・ブールジェ『罪・モニック』東京堂、1941年
- ポール・ブールジェ『姉妹』東京堂、1941年
- ジャック・シャルドンヌ『美しき死 クレール』日月書院、1943年
- アルチュール・ランボー『酔いどれ船』白樺書房、1948年
- その他
関連項目
編集脚注
編集- 注釈
- 出典
- ^ 『評伝 豊島与志雄』388-389頁
- ^ 『詩歌人名事典』「新城和一」
- ^ 池内輝雄「白樺派の文学」(『時代別日本文学史事典 近代編』有精堂出版、1994年)
- ^ 山敷和男「新城和一」
- ^ “陸軍教授秋田玄務外一名外一件”. JACAR Ref.A04018605600、公文雑纂・昭和十六年・第八巻・内閣・各庁高等官賞与二(内務省-海軍省二)(国立公文書館). 2014年11月30日閲覧。
- ^ 宮永孝「昭和八、九年の「法政騒動」」『社会志林』第59巻第4号、法政大学社会学部学会、2013年3月、200-179頁、doi:10.15002/00021153、ISSN 1344-5952、NAID 120005255313、2022年3月9日閲覧。
- ^ 『会津会会員名簿 大正八年六月発行』
- ^ 「一高の思ひ出」
- ^ 『評伝 豊島与志雄』58-59頁
- ^ 服部嘉香「三木露風の象徴味と宗教性」『国文学研究』第9巻、梅光女学院大学国語国文学会、1973年11月、89-99頁、ISSN 0286293X、NAID 110000993274。