斎藤時頼

平安時代末期の武士・僧。斎藤以成-斎藤以頼(左衛門尉)または斎藤茂頼(三条左衛門大夫)-時頼

斎藤 時頼(さいとう ときより)は、平安時代末期の武士明治期に高山樗牛の小説『滝口入道』の題材となった。

 
斎藤 時頼
時代 平安時代末期
生誕 不明
死没 不明
別名 滝口入道
主君 平重盛
氏族 疋田斎藤氏
父母 父:斎藤以頼または斎藤茂頼
母:藤原領子乳母
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略歴

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父は斎藤左衛門尉以頼[1]疋田斎藤氏)。『平家物語』では、三条斎藤左衛門大夫茂頼

『平家物語』によれば、内大臣平重盛に仕えたが、恋人・横笛への思いを断ち切るために出家し、「滝口入道」と呼ばれる。宮中警護に当たる滝口武者であったため、出家後の名前の由来となる。また、六波羅武士でもあった。その後、修行を積み、高野山真言宗別格本山の大円院の8代住職にまでなったという。

斎藤時頼の出家は史実で、『福井県史』によれば、母は平時忠の室・帥典侍(藤原領子)の乳母で智福山法輪寺[2]京都市西京区)において出家し[3]安徳天皇即位に伴い、官職任命権を持つ帥典侍に滝口武者に取り立てられたという[4]

なお、『平家物語』における横笛との悲恋は、明治26年(1894年)に高山樗牛がそれらを題材にした小説『滝口入道』として発表された。

滝口入道

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内大臣・平重盛に仕えた滝口武者・斎藤茂頼の子に斎藤時頼という武士がいた。身の丈は6尺(180cm)近くあり、母を早くに亡くし、成人した後に父と同じく重盛に仕えた。

時は平家全盛の時代。時の権力者平清盛(重盛の父)は、わが世の春を謳歌していた。ある日清盛は、西八条殿で花見の宴を催し、斎藤時頼もこれに参加していた。このとき宴の余興として、建礼門院(重盛の妹)に仕えていた横笛が舞を披露した。それを見た時頼は横笛の美しさ、舞の見事さに一目惚れしてしまった。

その夜から横笛を忘れられない時頼は、恋しい自分の気持ちを横笛に伝えるべく、文を送ることにした。数多の男らから求愛される横笛であったが、無骨ながら愛情溢れる時頼の文に心奪われ、愛を受け入れることに。しかし、時頼の父はこの身分違いの恋愛を許さなかった。傷ついた時頼は、横笛には伝えずに出家することを決意した。嵯峨の往生院(現在の滝口寺)に入り滝口入道と名乗り、横笛への未練を断ち切るために仏道修行に入った。

これを知った横笛は、時頼を探しにあちこちの寺を尋ね歩く。ある日の夕暮れ、嵯峨の地で、時頼の念誦の声を耳にする。時頼に会いたい一心の横笛だが、時頼は「会うは修行の妨げなり」と涙しながら帰したといわれる。横笛は都へ帰る途中、自分の気持ちを伝えたく、近くの石に「山深み 思い入りぬる柴の戸の まことの道に我を導け」と指を斬り、その血で書き記したという。

 
月岡芳年画「つきの百姿-法輪寺乃月 横笛」1890年

滝口入道は、横笛にこれからも尋ねてこられては修行の妨げとなると、女人禁制の高野山静浄院へ居を移す。それを知った横笛は、悲しみのあまり大堰川に身を沈めたとも、奈良・法華寺へ出家したとも伝えられる。横笛の死を聞いた滝口入道は、ますます仏道修行に励み、その後高野聖となった。大円院の8代住職を務め、元暦元年(1184年)には、紀州の勝浦で平維盛(重盛の子)の入水に立ち会っている。

脚注

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  • 『福井県史 通史編2』
  1. ^ 尊卑分脈
  2. ^ 源平盛衰記』でも法輪寺とある。『平家物語』では京都市右京区にある往生院(祇王寺)となってる。
  3. ^ 吉記』「養和元年十一月二十日条」
  4. ^ 『山槐記』「治承四年三月四日条」

関連項目

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外部リンク

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