文上麻呂
出自
編集文氏は朝廷において文筆を業とした漢系渡来氏族で、東漢氏系の文直(書直)と、西文氏系の文首(書首)の2種類の系統がある。いずれも、天武朝における八色の姓の制定を通じて忌寸姓に改姓しており[1]、上麻呂がどちらの系統に属するかは明らかでない。
経歴
編集聖武朝末に左少史を務める。また、勲十二等の勲位を持っていたことから、蝦夷征討に参画していた可能性もある。
孝謙朝の天平勝宝3年(751年)外従五位下に叙せられる。同4年(752年)4月には、土師牛勝とともに、大仏開眼供養に楯伏舞々頭を奉仕している[2]。天平勝宝6年(754年)4月に右京亮となるが、この時の左京亮には藤原武良志が任ぜられている。同年7月の太皇太后・藤原宮子の葬儀の際、橘諸兄・文室珎努・紀麻路・安宿王・厚見王・多治比国人・多治比木人・紀男梶・阿倍毛人・石川豊成とともに御装束司を務めた。
官歴
編集注記のないものは『続日本紀』による。