数学的なジョーク (すうがくてきなジョーク、英語: mathematical joke) とは、数学を題材としたユーモアの表現の一形態である。数学ジョークは数学におけるものの見方や数学者の類型といったようなものから作り出される。駄洒落語呂合わせ数学用語英語版の持つ多義性から来る笑いだけでなく、数学の専門的な概念に対する非専門家の予想もつかない誤解に起因するものも考えられる。

これらの数学的なジョークには数学の知識がなければ理解できないものが多く含まれている。本項目で列挙する数学のジョークの例は欧米文化英語語彙スペルに依存するものが多いため、しばしば英文を併記する。

なお、形態としてジョーク・小咄的なものであってもその陰に非常に巧妙な数理的意義が隠されうる可能性、そして本格的な数理問題へ発展する可能性は否定できず、単なる遊興的道具と割り切るのは早計である。

アメリカ数学会 (American Mathematical Society) の機関誌でも数学的なジョークが取り上げられ [1]カリフォルニア州立大学物理学の教授、ポール・レンテルンらによって示唆に富んだサーベイがされている。

駄洒落・語呂合わせによるジョーク

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数学(に必ずしもとどまる話では無いが)ではしばしば日常会話に用いるような単語を、数学的な特別の意味合いをもったジャーゴンとして用いる。これによって生まれる多義性を使って、ジョークを考えることができる。

Q.「数学者はなぜ国立公園が好きなんだい?」
A.「天然の丸太(natural log→自然対数)があるからさ。」

この例では、national / natural の駄洒落と多義語としての log に掛けている。ここでの数学者が言う“天然の丸太”は公園とは関係なく、実は自然対数という数学的な概念のことなのである。

いくつか群論に関する知識[2]を要する以下のような例はどうだろう。日常語をジャーゴンとして読むと質問の内容がまるで異なる内容になってしまってい、認識のズレが生じていることがお分かりいただけるだろうか(数学者が日常会話をまるで理解できないという意味ではない)。

Q. 「「紫」で連想(commute:可換の意味もあり)するもの言ってみて?」
A. 「アーベル葡萄(grape→group=)。」
Q. 「じゃあ「薄紫」で連想するものは?」
A. 「アーベル薄葡萄(semi-grape→semi-group=半群)」

これはよくあるグレープジョークと呼ばれるもので、紫=葡萄という連想をもってくるのだが、そこで grape と group を掛けて数学的な対象であるをジョークに持ち込んでいる。日常語としては「連想する」という意味を持つ commute が、数学的にはある種の(しばしば乗法や積と呼ばれる)二項演算が「可換である(交換法則が成立する)」という意味の専門用語として用いられているため、原文でしきりに「アーベル(の)」 (Abelian) という形容詞を持ち出しているのである(たとえば群演算が可換であるような群は可換群、あるいはアーベル群と呼ばれる)。 もちろん、アベリアというスイカズラ科の植物があり、薄いピンク-紫の花弁を有するかどうかはまったく関係の無い話である。

次のように派生したパターンもある。

Q. 「限られた人から信仰される紫で連想するのは?」
A. 「有限崇拝(finitely-venerated→finitely-generated→有限生成)アーベルブドウ。」
Q. 「「栄養」で連想するのは?」
A. 「アーベルのスープ(soup→group→群)。」

次は、起承転結が整っているという意味で完成度が高い話になっている。

人物 A:「1/cabin の積分は?」
人物 B:「天然の丸太(natural log→自然対数)でできた小屋(cabin)。」
人物 A:「不正解、答えはハウスボートだ。君は C (→sea→海)を加えるのを忘れている。」

前半は逆数関数 1/x原始関数が自然対数関数 ln xであることに基づいたジョークになっている。後半は、学生などが、不定積分を書き表すときにを加えておく必要がある「積分定数」(通例 C で表される)をよく書き忘れてしまうという話を利用している。詰まるところ、 1/cabin の不定積分は "ln(cabin) + C(=sea)" つまり「海の上の天然丸太小屋」("A natural log cabin plus the sea") であって、そりゃ要するにハウスボートのことだろう、というのである。

基数の多義性によるジョーク

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「この世には10種類の人間しかいない。二進数(binary)を理解する人間と理解しない人間だ。」

このジョークは数学の式でも自然言語の表現のように多義性があることに起因する。多義解釈が可能であれば「駄洒落」が構成できる。この場合では 10 という表現で駄洒落が用いられている。数学者でない非専門家あるいはコンピュータ技術者以外に対しては 10 は整数値の 「十: ten」を意味する。しかし、二進法では 10 は整数値の「二: two」を意味する。このジョークは文字として書かれたもののみで有効である。というのは、二進法として 10 を声に出して読むなら「ジュウ」ではなく「イチ・レイ (ゼロ)」または「ニ」と言わなくてはならないからである。

同様なジョークがある種の質問文で有効である。

「もし死人(DEAD people)のみが16進数を理解できるなら、16進数を理解できるのは何人か?」
「57,005人だな。」

このケースでは DEAD が「死者」ではなく 0123456789ABCDEF の数字を使用する十六進法表記による数として理解され、十進法で 57,005人と答えた。

基数を用いた駄洒落は、コンピュータ科学者に対するものともいえる。

「なぜ数学者はいつもハロウィンとクリスマスを混同するんだい?」
「8進数 (Oct) の 31 は 10進数 (Dec) の 25 だからさ。」

このユーモアはハロウィンが 10月31日 (October 31) であり、クリスマスが12月25日 (December 25) であることに起因する。octOctober / OctaldecDecember / Decimal に通じることに依存している。このユーモアはコンピュータ科学者によって「実際のプログラマたちはハロウィンとクリスマスを混同している。dec(25) = oct(31) だからだ。」とも言われている。

数学者ってこんな人?

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わけがわからないことをする、話が抽象的だ、現実世界との関わりをあまり持たないといった傾向があるという世間一般が考える典型的な数学者像の類型を基にしたジョークもある。

それらのジョークの多くは、エスニックジョークに類するもの、あるいはグレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国イングランド人とアイルランド人とスコットランド人の違いを論じるジョークのように、数学者と、物理学者技術者、あるいは他分野の科学者と比較する。そのようなジョークは、他の科学者がなにがしかの実証的・実験的な吟味を行うのに対して、数学者が研究・思考する際には理論的な検証のみを行いそれ以上の実際的な吟味を伴わないことを示している。

純粋数学者、物理学者、そして会計士が求職している。面接官は彼らに「1/3 掛ける 3 は幾らですか」と訊ねた。純粋数学者は「答は当然 1です」と答えた。物理学者は「有効数字5桁で 1.0000です」と答えた。最後に会計士は「1/3 掛ける 3をいくつにしたいんですか?」と答えた。

会計士が「(いわゆる「統計上の嘘」を駆使して)なんならお望みの数値を出してみせますよ」という含みで聞き返しているというのがオチである。計算に対する数学者、物理学者、会計士のそれぞれの特徴が出ているように思われる。

ある数学者とその親友である技術者は13次元空間の幾何学に関する公開講義に参加した。講義の後で「13次元はどうだったかね」と数学者が訊ねると、技術者は「ああなんだか眩暈がしてきちゃったよ」と告白し、「君は13次元空間をどうやって理解するんだい」と聞き返した。数学者は「ああ、それは簡単。まず n-次元空間で一般論を作って、n に 13 を代入すればいいんだよ」と答えた。

数学者は個々の事例から一般へという帰納的なものの考え方よりも、「一般から特殊へ」といったものの考え方(論理の流れ)を好むという話である。

物理学者、生物学者、そして数学者が道に面したカフェに座って道路の反対側の建物に出入りする人々を観察している。最初に彼らは建物に入って行く二人の人物を見、しばらくして建物から三人の人物が出てくるのに気付いた。物理学者は「あれ、見落としがあったかな」と言い、生物学者は「いやいや、なかで増えたんだよ」と言った。それに対して数学者は「もしあと一人が建物に入れば、中には誰もいなくなるね」と呟いたという。

観測に誤差を生じたとき、物理学者は測定のミスを疑い、生物学者は繁殖で状況が変わったのだろうと推測する。数学者が言っている「入ったら中に誰もいなくなる」というのはもちろん 2 − 3 = −1 人が建物にいるという仮想的な状態を考えれば、もう一人入れば −1 + 1 = 0 人(= だれもいない)という状態になるよねという意味である。

つぎは、数学者の思いつきさえすれば具体的な行動はとらないという性癖を表したジョークである。

数学者、技術者、化学者が学会に参加しており、ホテルで隣接した部屋に滞在している。ある夜、彼らは階下のバーにいる。最初に数学者がベッドに戻る。次に化学者、そして数分後に技術者がベッドに戻る。化学者は部屋の外の廊下でゴミ箱が燃えているのに気付く。近くには水が入ったバケツがひとつある。化学者は即席で消火器を作るために二酸化炭素の発生手段を考え始めたが、結論が出る前に到着した技術者が火に水をぶっ掛けて消し止めた。翌朝、化学者と技術者は昨晩の小火騒ぎの顛末を数学者に話すと、数学者は昨晩ゴミ箱から火が出ていたことに気づいていたという。化学者と技術者は数学者になぜ消火しなかったのか訊ねると、数学者は軽蔑するように「火が燃えていて、そばに水入りバケツがある。何をすればいいかは明らかなのに、いったい何の不満があるのかね」と答えたという。

ここには火を消すには二酸化炭素が必要という化学者、それに対して理屈を考えずとにかく行動する技術者、解 (解法) の存在を確認して満足する数学者の構図がある。

一方で一つの数学的結果は膨大な計算や試行錯誤の末に得られることがほとんどであるが、個々の計算や試行の跡は最後には捨てられてしまう。

数学者、哲学者と科学者が談笑している。科学者が「ああ、研究に金がかかって仕方がない。試薬や器具を必要としない君たちが羨ましいよ」と言うと、それに答えて数学者が哲学者の方を見ながら言う。「全く同じことを言いたいよ。僕ら(数学者と科学者)はどちらも紙と鉛筆で研究するが、君(哲学者)はゴミ箱を買わなくて済むからね」と。

ビル・ベイリー (en) による次の例は、数学者の(「無限に続く」状況のような)現実世界ではまあ応用がまるでないような仮言的な状況を作り出す癖に焦点を当てたものである。イギリスアイルランドなどではビールをパイント単位 (568ml) のグラスで飲むのが通例であることを注意しておく。

無限の数の数学者がバーに入って行く。最初の一人はバーテンダーに近づいて「ラガーをパイント・グラスで頼む」と言い、後のものは皆こぞって「同じものを(すぐ前の者を指して)彼の半分だけ」と延々と続ける。するとバーテンダーは「ああもうおまえらみんなバカヤローだな」と言って2パイントを注いだ。

無限に同じことを繰り返すといつまで経っても終わらずにバーテンダーの気が滅入ってしまうところだが、よく知られているように無限数列 (1, 1/2, 1/4, ...) の総和きっかり 2 であり、バーテンダーは一度に無限にいる全員分のビールを注いで後は勝手にしろというのである(あるいはヒルベルトの無限ホテルのようにビールが注がれるそばから次の人のグラスに半分ずつ流し込めばバーテンダーが注ぐ有限な時間のうちに無限の客全員が望みの量のビールを得ていることだろう)。ジョーク自体が数学者の類型のひとつを表している一方で、(設定では客のほうが数学者になっているが)実はバーテンダーの行動はまさに数学者のそれであったりするという面白みがある。

天文学者、物理学者、そして数学者がスコットランドを走る列車に乗っている。天文学者は窓の外を眺め、一頭の黒い羊が牧場に立っているのを見て、「なんと奇妙な。スコットランドの羊はみんな黒いのか」と言った。すると物理学者はそれに答えて「だから君たち天文学者はいいかげんだと馬鹿にされるんだ。正しくは『スコットランドには黒い羊が少なくとも一頭いる』だろう」と言う。しかし最後に数学者は「だから君たち物理学者はいいかげんだと馬鹿にされるんだ。正しくは『スコットランドに少なくとも一頭、少なくとも片側が黒く見える羊がいる』だ」と言った。

数学のもつ極端な厳密性を笑ったジョークである。

列車に生物学者も同乗しているパターンもある。その場合、生物学者の「あれはヤギだ」がオチとなる。

星が流れるのを見て、占星術師は運命を占い、天文学者は天体の運行を知り、数学者は数学をする。
空に虹がかかるのを見て、詩人は詩を作り、気象学者は明日の天気を知り、数学者は数学をする。

数学者は物理現象を扱わない為、社会に興味を持たない傾向があるのを笑ったジョークである。

時として数学者は一般人には奇想天外でしかも常識に囚われないアイディアを出すことがある。

社会学者、物理学者、そして数学者が、同じ長さの閉じたロープによって最大の面積をもつ領域を囲む方法を考えている。社会学者は正方形の囲いを作った。物理学者は円の面積が周囲長の同じ正方形より大きいことを思い出して円を形成し、「君はこれよりも大きくすることができるか」と数学者に問うた。数学者は円形のロープで自分を囲んで「私が今立っているところを外側と定義する」と言った。

地表のような球面に円を置いたとき、円によって分けられる二つの領域のどちらが囲まれた内側であるかということは、それだけでは数学者にとっては実は明らかなことではない。極端に言えば、赤道の周長と同じ長さのロープで囲むものとして話を読めば、数学者は常識的なレベルでも何もおかしなことを言っていないはずである。面をロープで囲むという一見単純な問題でさえ、数学者にかかれば単純とは程遠い自明でない問題の類にされてしまう。

素人の数学

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次のジョークのカテゴリは一般的な誤解や、大半の人々が初等的な数学教育のみを受けているという期待を利用したものである。

ロイヤル・ティレル古生物学博物館のとある入場者はティラノサウルスの化石に感激し、近くにいた職員にどれくらい古いものかを訊ねたところ、職員は「あの骨格は6,500万年と3年2ヶ月18日前のものです」と答えた。「随分細かく判るんですね」と入場者が再度訊ねると、職員は「はい、私がここで働き始めたとき、当博物館の学芸員に全く同じ質問をしたら、彼は6,500万年前だ、と答えたのですが、そのときが3年2ヶ月18日前だからです」と答えたという。

この例は、学芸員が持つその化石の年代に関する不確かさの含意について博物館員が理解ができなかったことによるジョークである。ここまで極端ではないにしろ、高等教育を受けているはずの学生が不十分な有効精度・有効数字[3]の吟味に起因して意味の無い桁数の数値を提示する科学的実験レポートの存在は科学教育での潜在的問題を提起するものであり、警鐘的意義を否定することはできない。

数学もどき

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(抽象的な記号でも電卓のような物理的なものでもいいが)数学的な道具を、その本来の使途に反する形で使って作られたジョークがある。無論、そういった「ジョーク」に「本物」の数学や算術が使われることはまずない。

似非数学的な理由付け

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多義性によるジョークは、本当は論理的に十分有効ではないことがわかった上で、数学的な理由づけを行うというものである。それらの多くはよく知られた金言や三段論法のような基本的な論理構成を組み合わせて作られる。

知識は力なり。(Knowledge is power.)
力(権力)は堕落する。(Power corrupts.)
従って、知識は堕落する。(Therefore, knowledge corrupts.)

以下のような、「証明」に似せた類いのジョークもたくさんある。

女は時間と金が掛かる。  
(Women are the product of time and money.)
で、「時は金なり」だから、  
(Time is money.)
要するに金の事情自乗)ということだ。  
(So women are money squared.)
そういえば「金は諸悪の根源なり」だったな。  
(Money is the root of all evil.)
よって、女は邪悪であることが示された。  
(So women are evil.)

次は、Nothing の多義性を使ったジョークである。

妻よりもいいものはない。(Nothing is better than my wife.)
ないよりは1円のほうがいい。(1 Yen is better than nothing.)
従って、妻より1円のほうがいい。(Therefore, 1 Yen is better than my wife.)

Nothing や Nobody の多義性を使ったジョークは鏡の国のアリスにも登場する:「誰かいる」、「誰もいません (Nobody is there)」、「Nobody って誰?」。

ほかにも、数学的な理由もなく慣習的記法を誤解釈することに関係したジョークもある。

 

x を右から 8 に近づけた極限が 8 を横転した「∞」(無限大を表す記号)になっているのだから、(8 を 3 に置き換えただけの同じ問題では)x を右から 3 に近づけた極限は 3 を横転させればいいんだろと、ギリシャ文字の小文字「ω」(オメガ)を書いてしまうというもの[4]。もちろん、この含意は「 8 」と「 3 」の他に適用できる保証はない。

 

これはつまり、"sin" の "n" と 分母の "n" とを約分して、それぞれ "six" (= 6) と 1 が出てくるといっているのである。もちろん、"sin" はこのひとまとまりで正弦を表しているからこのようなことにはならない。印刷物では、ひとまとまりであることを明示するために sinローマン体を用いて組版するのが通例であるが、手書きなどではうまく書き分けがされていないことも多いため、現実に起こらないともいえないものである。

「なぜ、6 は 7 を怖がるんだい?」

「それは 7 が 9 を食べた(ate→eight=8)からだ。」
「ではなぜ、7 は 8 を怖がるんだい?」

「それが数学的帰納法さ。」

動詞 eat の過去形 ate の発音 は eight の発音と同じである。これと同様の言葉遊びを使ったジョークとして、以下のようなものがある。

「69(シックスナイン)のルートはなに?」
「8とちょっとだね(eight something→ate something; ナニを咥える)」

意図的な誤謬

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意図的に作った謬論を一種のジョークとして楽しむ事ができる。

【定理】  である。

【証明】
  とすると、次のように変形できる。

 

適宜移項して、

 

因数分解し、

 

両辺から同値の部分を消去すると次式を得る。

∴  

Q.E.D.

両辺を で割るには、 であることが必要である。しかし仮定として としているため両辺から同値の部分を消去する(両辺を で割る)ことはできない。

髪の毛がない人はハゲである。
ハゲに1本加えてもやはりハゲである[5]
よって数学的帰納法より、全ての人はハゲている。

以上のような論法の起源は、古代ギリシャの哲学者ミレトスのエウブリデス (en) が作ったとされる「ハゲ頭のパラドックス」 (Paradox of the Bald Man)[6]に帰せられる。これは砂山のパラドックスの起源としても知られる。

電卓的つづり入力

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数学の本題から少々外れるが、電卓的つづり入力(en)についてのジョークもある。電卓を用いて数字を入力することにより単語や文節が形成され、その単語は解などを導く数字を含む小話が関連する。

数学リメリック

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リメリック (五行戯詩、en) は厳格な形式を持つ五行詩であり、日本での短歌俳句あるいは川柳に対応する文学である。数学リメリックは、リメリックの形式に適合した数式の読み上げ法の形式である。次の例はLeigh Mercer(en)による[7]

 

この式は次のように読み上げられる。

「1ダース、1グロス、そして1スコア、」(A dozen, a gross, and a score)
「加えることの 3 掛けるルート 4、」(Plus three times the square root of four)
「割る 7、」(Divided by seven)
「プラス 5 掛ける 11は、」(Plus five times eleven)
「9 の二乗と、もうなにもない。」(Is nine squared and not a bit more)

数理的問題への発展

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このような数学的ジョークは、単に遊興の道具としてのみ用いられるものではなく、時として数理的問題や暗号などの数理科学的考察への発展が期待される。 その導入となる対象は覆面算[8]、文字を用いた数理パズルなどである。

ここでは単純な覆面算の一例のみを示す。

   SEND

+  MORE

= MONEY

この覆面算の解は O = 0, M = 1, Y = 2, E = 5, N = 6, D = 7, R = 8, S = 9 である。連立一次方程式の伝統的な解法によらず、例えば 4桁と4桁の和で5桁となっていることから M=1 が演繹できるなど、論理的色彩が強いものが多い。

参考文献

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  1. ^ Paul Renteln and Alan Dundes (2004-12-08). “Foolproof: A Sampling of Mathematical Folk Humor” (PDF). Notices of the AMS 52 (1). http://www.ams.org/notices/200501/fea-dundes.pdf. 
  2. ^ Weisstein, Eric W. "Abelian Group". mathworld.wolfram.com (英語).(c.f. abelian group: アーベル群、abelian semigroup: アーベル半群、finitely generated abelian group: 有限生成アーベル群)。
  3. ^ Myers, R. Thomas; Oldham, Keith B.; Tocci, Salvatore.. “2” (English) (Textbook). Chemistry. Austin, Texas: Holt Rinehart Winston. p. 59. ISBN 0-03-052002-9 
  4. ^ Xu, Chao (2008年2月21日). “A mathematical look into the limit joke”. 2008年4月19日閲覧。
  5. ^ ここでは「髪の毛が少ない人」の意味で「ハゲ」という言葉を用いている。髪の毛の本数が0本である必要は無い。
  6. ^ Hyde, Dominic, "Sorites Paradox", The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Fall 2005 Edition), Edward N. Zalta (ed.)
  7. ^ Math Mayhem
  8. ^ H. E. Dudeney, in ストランド・マガジン vol. 68 (July 1924), pp. 97 and 214.

関連項目

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外部リンク

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