志道 広良(しじ ひろよし)は、戦国時代武将毛利氏の家臣。通称は太郎三郎[1]受領名上野介[1]大蔵少輔[1]安芸国志道城主。父は志道元良[1]。子に志道大蔵少輔守熊実相寺住職)、口羽通良[注釈 1]志道就良坂元貞志道元信志道元親など。

 
志道広良
志道上野介廣良
毛利博物館「毛利元就座備図」より)
時代 戦国時代
生誕 応仁元年(1467年
死没 弘治3年7月1日1557年7月26日
別名 通称:太郎三郎[1]:瑞如[1]
戒名 瑞卜道亀[1]
官位 受領名上野介[1]大蔵少輔[1]
主君 毛利弘元興元幸松丸元就
氏族 大江姓毛利氏庶流志道氏
父母 父:志道元良[1]
大蔵少輔[1]、女(赤屋豊将の母)[1]
女(秋山氏室)[1]守熊実相寺住職)[2]
女(桂元澄室)[2]口羽通良就良[2]
坂元貞[2]、女(田緒氏室)[2]、女(福原氏室)[2]元信[2]元親[2]
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生涯

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応仁元年(1467年)、毛利氏の庶家で代々の毛利氏当主を補佐していた坂氏一門で、安芸国高田郡志道村[注釈 2]に居住して「志道」の苗字を称した志道元良の嫡男として生まれる[5]

明応9年(1500年7月14日に父・元良が死去し、その後を継ぐ[1]。同年3月に毛利氏の家督を相続した毛利興元の代から毛利家執権(執政)を務めていたが、興元の弟・元就の器量を早くから見抜き、親交を結んでいた。永正10年(1513年)には、17歳の元就が47歳の広良に差し出した起請文では、両者がよく協力しつつ、主君である興元に忠節を尽くすことを誓っている[5]。広良が元就を並の人物では無いと見抜き[6]、年若い元就に起請文の提出を求めて一人前の武将に育て上げていったとされる[7]

毛利興元と嫡子の毛利幸松丸が夭折した後、毛利元就とその弟・相合元綱との間で争いが起きると、元就を支持して、他の14人の宿老とともに署名した起請文を提出[注釈 3][5]し、かつ足利将軍家の同意もいち早く取り付けた。その後、元綱を擁立した宿老の坂広秀渡辺勝の謀反はあったものの、元就に無事家督を相続させることに成功。本家筋の坂広秀が相合元綱を擁して謀叛した際には、元就方として鎮定する側にまわったため、乱の後に次男の志道広昌に途絶えた坂氏の名跡を継がせて、本家を継承せしめた。また、元就が謀叛の背景にいたと思われた尼子経久と縁を切り、一度は離反した大内義興の陣営に復帰しようとした際には、広良が義興の重臣陶興房を説得して復帰を実現させた[8]。以後の広良は元就の軍師的な役割を務めた。

享禄3年(1530年)、尼子経久と息子の塩冶興久が争い、互いに宿敵である大内義隆(義興の子)に援軍を求めた際、陶興房は広良に意見を求めている。その後、毛利元就の意見を容れた大内義興は尼子経久と和睦してこれを支援している[8]

享禄5年(1532年7月13日の毛利氏家臣団32名が互いの利害調整を元就に要請した連署起請文では2番目に「志道上野介広良」と署名している[注釈 4]

さらには元就の子・隆元の後見役を務め活躍しており、天文6年(1537年)に隆元が大内義隆の人質として山口に送られた際に随行している。また、天文9年(1540年)の春から、翌10年(1541年)の夏まで1年以上にわたって山口に滞在していたことが判明している、この間に尼子詮久による安芸侵攻が始まり、吉田郡山城では籠城戦が行われている(吉田郡山城の戦い)にも関わらず、執権である広良が山口に留まって本国に戻らなかった理由として、人質になっていた隆元の帰国交渉を行っていたのではないかとする推測がある[9]

天文15年(1546年)4月、80歳を迎えていた広良は引退を申し入れる。元就もこれを期に家督を隆元に譲る考えを示し、遅くても翌天文16年(1547年)6月までに隆元の毛利家家督継承と広良の執権引退が行われたとみられている(ただし、毛利家中の実権は依然として元就が握っている)[9]

毛利元就が大内氏を滅ぼした防長経略が終わってすぐの弘治3年(1557年7月1日に91歳の長寿で死去[5]。嫡男の大蔵少輔には天文8年(1539年9月13日に先立たれていたため、嫡孫(大蔵少輔の子)の志道元保が跡を継いだ。

逸話

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  • 元就から非常に信頼されており、「(隆元の周辺には)広良のような名宰相がいない」と語られている[6]。また、元就が自筆書状においてかつて自らを支えてくれた家臣の名をあげる際に広良の名を真っ先に挙げている。その他、広良と共に名前を挙げられているのは井上有景井上俊久井上俊秀粟屋元国国司有純国司有相である[10]
  • 隆元に「君は船、臣は水」(家臣は水であり、その水が無いと船は浮かばない。また、水は簡単に船をひっくり返す。だからこそ君臣の関係は大切にしなければならない)と、主従関係を例えている。

脚注

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注釈

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  1. ^ 口羽通良を志道元良の次男で志道広良の弟とする説もある[3][4]が、元良は通良が生まれる前の明応9年(1500年7月14日に死去している[1]
  2. ^ 現在の広島県広島市安佐北区白木町大字志路
  3. ^ この時連署状に署名した15名の宿老は、署名順に福原広俊中村元明坂広秀渡辺勝粟屋元秀赤川元助(元保)井上就在井上元盛赤川就秀飯田元親井上元貞井上元吉井上元兼桂元澄志道広良
  4. ^ この時連署状に署名した32名は、署名順に福原広俊志道広良桂元澄福原元勝坂広昌(元貞)山中元孝光永元隆北就勝井上元吉粟屋元秀井上就在長屋吉親井上元盛井上元貞国司有相井上有景井上元続井上俊秀井上良在井上俊久国司就連粟屋元親粟屋元国赤川就秀飯田広親赤川元助(元保)佐々部祐賢南方親州内藤元康秋山親吉三田元実井原元師

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 近世防長諸家系図綜覧 1980, p. 149.
  2. ^ a b c d e f g h 近世防長諸家系図綜覧 1980, p. 150.
  3. ^ 舘鼻誠 1996, p. 259.
  4. ^ 『閥閲録』巻32「口羽衛士」、口羽氏系譜。
  5. ^ a b c d 舘鼻誠 1996, p. 268.
  6. ^ a b 吉田龍司 2010.
  7. ^ 目で見る 毛利家あれこれ 〜毛利博物館収蔵資料と歴史ばなし〜 第122回 - 毛利博物館 館長代理・柴原直樹(地域情報新聞ほっぷ)[リンク切れ]
  8. ^ a b 秋山伸隆「高橋氏の滅亡時期をめぐって」『令和元年度企画展 芸石国人高橋一族の興亡 展示図録』、安芸高田市歴史民俗博物館、2020年。 /所収:村井良介 編『毛利元就』戎光祥出版〈中世西国武士の研究 8〉、2024年10月、87-96頁。ISBN 978-4-86403-548-4 
  9. ^ a b 秋山伸隆「毛利隆元の家督相続をめぐって」『没後四五〇年記念特別展 毛利隆元-名将の子の生涯と死をめぐって 展示図録』、安芸高田市歴史民俗博物館、2013年。 /所収:村井良介 編『毛利元就』戎光祥出版〈中世西国武士の研究 8〉、2024年10月、245-252頁。ISBN 978-4-86403-548-4 
  10. ^ 『毛利家文書』第418号、年月日不詳 毛利元就自筆書状。

参考文献

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関連作品

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