志方町
志方町(しかたちょう)は、兵庫県加古川市の最北端に位置する地域である。本項では、かつて存在した印南郡志方町についても述べる。
志方町 しかたちょう | |
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国 |
![]() |
地方 | 近畿地方 |
都道府県 | 兵庫県 |
自治体 | 加古川市 |
旧自治体 | 志方町 |
面積 |
39.36km² |
世帯数 |
3,817世帯 |
総人口 |
10,888人 (推計人口、2013年2月1日現在) |
人口密度 |
276.63人/km² |
隣接地区 | 東神吉町・西神吉町・加西市・高砂市・姫路市 |
加古川市役所志方町市民センター | |
![]() | |
北緯34度49分16.5秒 東経134度49分9.6秒 / 北緯34.821250度 東経134.819333度座標: 北緯34度49分16.5秒 東経134度49分9.6秒 / 北緯34.821250度 東経134.819333度 | |
所在地 |
〒675-03 兵庫県加古川市志方町1758-3 |
概要
編集志方町大宗で撮影
志方の名の由来
編集神功皇后が三韓征伐に行かれたとき、この地に上陸、今の宮山に上り、たくさんのシカが田野の間の群れあそびのをご覧になって「あなおもしり、鹿田とは名付けまし」と感嘆されたのにちなんで、鹿田と称するようになり、のち鹿田と改め、さらに「志し来りし方」の意味を以て志方になったものといわれている。[3]
地勢
編集南は神吉地区(宝殿)、南西は高砂市、西は姫路市、北は加西市、東は平荘町に接している。その地勢は総面積の70%におよぶ山地が北及び東、西の三方向にそびえて南に向かって大きく口を開けた形である。山に囲まれた中央の平地は天神山、宮山、石打山によって東西に分断され、東の平地は帯状にして平坦、遠く加古川の西岸に及び、加古川の支流域と見てよく、西の平地は傾斜のゆるい台地が起伏して神吉平野に続いている。
方位および地名 | 距離 | 経度(東経) | 緯度(北緯) |
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東端 野尻栗の木峠 | 10.7 km | 134度52分44秒 | 34度49分56秒 |
西端 原荒神谷川南 | 134度45度58度 | 34度49分21秒 | |
南端 横大路小山の西 | 7.4 km | 134度48分18秒 | 34度47分47秒 |
北端 畑法華口 | 134度49分2秒 | 34度51分48秒 |
- 土地の最高地 - 高御位山 (304.2m)
- 土地の最低地 - 横大路大坪南 (5m)
歴史
編集沿革
編集しかたちょう 志方町 | |||
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廃止日 | 1979年2月1日 | ||
廃止理由 |
編入合併 志方町 → 加古川市 | ||
現在の自治体 | 加古川市 | ||
廃止時点のデータ | |||
国 | 日本 | ||
地方 | 近畿地方 | ||
都道府県 | 兵庫県 | ||
郡 | 印南郡 | ||
市町村コード | 28401-7 | ||
面積 | 39.88 km2 | ||
総人口 |
13,987人 (国勢調査、1975年) | ||
隣接自治体 | 姫路市、加古川市、高砂市、加西市 | ||
町の木 | マツ | ||
町の花 | サツキ | ||
志方町役場 | |||
所在地 |
〒675-03 兵庫県印南郡志方町志方町1074-1 | ||
座標 | 北緯34度49分15.9秒 東経134度49分9.8秒 / 北緯34.821083度 東経134.819389度 | ||
ウィキプロジェクト |
1953年10月に町村合併促進法が施行(昭和の大合併)されると、1954年3月に兵庫県加印地方事務所は管内を6ブロックに分けた合併案を示す。このうち志方ブロック(志方村・東志方村・西志方村)については合併にあたっての支障が他ブロックより少なく、同年8月に6ブロックの中で最も早く合併を果たした。
昭和40年代に入ると高砂市と志方町との合併論議が高まる。1968年(昭和43年)11月29日に任意の合併協議会が発足し、1969年(昭和44年)10月に高砂市は合併を前提とした「高砂市建設計画案」を発表、将来の山陽自動車道開通等を見据えて「工業優先から生活中心の政策」「生命を大切にする都市政策」などの見出しを掲げた。1970年(昭和45年)には法定合併協議会が成立し、新市建設計画案を承認した。しかし計画案は特に中志方地区で反対意見が強く[注 1]、1971年(昭和46年)の志方町長選・町議選で体制が合併慎重派に代わったため、高砂市との合併の話は流れてしまった[4][5]。
1972年(昭和47年)、加古川市・高砂市・稲美町・播磨町・志方町による「二市三町議会公害対策協議会」および「東播臨海広域行政協議会」が結成され、広域行政化の流れができる。これを基にして加古川市長・稲岡貞男は2市3町による合併を提唱し、稲岡の後任である中田敬次もこれを引き継いだ。折しも石油ショック後の財政難の中で合併実現によるスケールメリットで補えないかとする考えは2市3町で共通するものであり、1977年(昭和52年)9月16日の東播臨海広域行政協議会の審議会の席上でそれぞれの市町の9月議会で正式な合併協議会の設置を提案して承認を得ることを申し合わせた。しかし高砂市議会は9月議会で合併協議会の設立へ進むことができず[注 2]、審議未了で廃案、高砂市は合併協議から離脱した。合併協議会は条件の整ったところから一つ一つ合併を積み上げることとし、1978年(昭和53年)3月6日に志方町は加古川市との1市1町の合併を提案、加古川市もこれを受けて合併が成立することとなった[6]。
志方町時代
編集- 1954年(昭和29年)8月1日 - 志方村・東志方村・西志方村が合併し志方町発足。
- 1957年(昭和32年)12月31日 - 西出張所(志方町原)廃止。
- 1959年(昭和34年)2月28日 - 東出張所(志方町細工所)廃止。
- 1979年(昭和54年)2月1日 - 加古川市に編入され消滅。
加古川市時代
編集行政
編集- 町長
- 藤本和蔵(4期)
- 黒田寛一(1期)
- 広瀬義一(2期)[2]
町木・町花
編集当町の3分の2は山地であり、アカマツ・クロマツの生育地であることから制定された。
当町にツツジが生育していることから制定された。
経済
編集農業
編集工業
編集- 靴下 - 「志方靴下」と呼ばれており、加古川市の靴下製造の歴史は100年以上あり、明治初年に志方町の住民が上海から手廻しの靴下編立機を持ち帰り、製造を始めたことにより靴下の製造が始まった。大正初期に半自動式編立機、さらに1924年(大正13年)には自動編立機が輸入されるなど技術革新が進み、また、1923年(大正12年)の関東大震災による情勢変化などにより、播磨の産地規模は急速に拡大し、東南アジアや中国にも輸出されるようになった。1953年(昭和28年)に兵庫県靴下工業組合(高砂市)が設立された。また、ナイロンを始めとする合成繊維の開発により、設備の近代化、技術水準の高度化が進んでいる。現在、コンピューター編立機や特化した設備で特殊素材の使用へと移行している。東南アジアなどからの輸入の増加に対して、付加価値のある商品開発へ移行している[8][7]。
- タオル
地域
編集施設
編集教育
編集子ども園
編集- しかた幼稚園(しかた子ども園)
小学校
編集中学校
編集出身人物
編集政治・経済
編集- 稲岡孝治郎 - 稲岡商店合名会社代表社員、イカリ印タオル製造業。
- 中尾正幸 - カネユキ精肉店店主、志方食肉組合理事、志方油脂組合長。
- 沼田静治 - 大地主、志方銀行頭取、広尾金融社長[11][12]。
- 沼田十郎 - 志方銀行頭取。
- 平井参次 - 志方食肉卸小売組合名誉会長、兵庫県食肉卸組合連合会会長、兵庫県食肉環境衛生同業組合・同食肉共同組合相談役。
- 平岡萬次郎 - 弁護士、衆議院議員。平岡太吉の長男[13]。
- 平岡定太郎 - 内務官僚、樺太庁長官、福島県知事。平岡萬次郎の弟[13]。作家三島由紀夫(本名は平岡公威)の祖父[14]。
- 横山三良 - 三喜繊維社長、兵庫県靴下工組理事長。
文化
編集- 植原繁市 - 詩人。
学者
編集その他
編集歴史上の人物
編集史跡
編集寺社
編集公共施設
編集- 加古川市立志方体育館
- 志方郵便局
- 加古川市役所志方市民センター
イベント
編集- コスモスまつり(毎年10月ごろ)
脚注
編集注釈
編集- ^ 中志方地区は「高砂市と志方町の間は高御位山にさえぎられ、交通の便が悪い上に、経済的な結びつきもあまりない」「「新市建設五カ年計画(案)」が規模などの点で実状に合っていない」「公共料金が安いといっても、一般会計から多額の繰り出しによって穴埋めしているうえ、ヤミ起債の多い財政事情に不安がある」として反対意見が続出した。
- ^ もともと東播臨海広域行政協議会のメンバーと2市3町議会との合併に対する温度差はかなり大きく、加古川市議会・高砂市議会では革新勢力の強い反対によりなかなか合意を得ることができなかった。加古川市議会は9月議会で合併協議会設置案を可決したが、高砂市議会は別行動をとり合併調査研究特別委員会を設置したにとどまった。
出典
編集- ^ 志方町勢要覧1975 目次
- ^ a b c d 志方町勢要覧1975 p1
- ^ a b 志方町勢要覧1975 p2
- ^ 「高砂市史」p.789~790
- ^ 「加古川市史」p.913-918
- ^ 「加古川市史」p.918-922
- ^ a b 志方町勢要覧1975 p14
- ^ 加古川市の靴下生産の歴史(株式会社ミヤシタ)
- ^ “施設概要”. 公益財団法人加古川食肉公社. 2024年5月9日閲覧。
- ^ “施設概要”. 加古川中央畜産荷受株式会社. 2024年5月9日閲覧。
- ^ 『日本現今人名辞典』ぬ2頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年3月20日閲覧。
- ^ 『人事興信録 第6版』ぬ2頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年3月20日閲覧。
- ^ a b 『日本紳士名鑑』318 - 319頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年7月17日閲覧。
- ^ a b “三島由紀夫が描いた関西 残された1本の松”. 産経新聞 (2020年10月15日). 2024年3月21日閲覧。
参考文献
編集- 『日本現今人名辞典』日本現今人名辞典発行所、1900年。
- 成瀬麟、土屋周太郎編『大日本人物誌 一名・現代人名辞書』八紘社、1913年。
- 人事興信所編『人事興信録 第6版』人事興信所、1921年。
- 須藤常編『日本紳士名鑑』日本紳士名鑑発行所、1912年。
- 志方町編纂委員会『志方町誌』志方町役場、1969年。
- 志方町総務部企画課 編『志方町勢要覧1975』(初版第1刷)志方町、1975年7月。ISBN 4095263113。
- 高砂市史編さん専門委員会編集「高砂市史」第3巻通史編近現代 平成26年3月31日発行
- 加古川市史編さん専門委員編集「加古川市史」第3巻本編3 平成12年3月31日発行