広橋兼仲

鎌倉時代後期の公卿。広橋経光の次男。従二位・権中納言。日記『勘仲記』。

広橋 兼仲(ひろはし かねなか)は、鎌倉時代後期の公卿勘解由小路 兼仲(かでのこうじ かねなか)の名で知られている。民部卿広橋経光の次男。官位従二位権中納言。日記『勘仲記』の著者。

 
広橋兼仲
時代 鎌倉時代後期
生誕 寛元2年(1244年
死没 徳治3年1月20日1308年2月12日
改名 兼仲→兼寂(法名)
別名 勘解由小路兼仲
官位 従二位権中納言
主君 後深草天皇亀山天皇後宇多天皇伏見天皇後伏見天皇後二条天皇花園天皇
氏族 広橋家
父母 父:広橋経光、母:藤原親実の娘
兄弟 兼頼兼仲
源親時の娘
光資光業、宗昭、時兼、藤原嗣実[1]室、女子[2]藤原氏家[3]
テンプレートを表示

経歴

編集

建長4年(1252年)に元服正嘉2年(1257年)に叙爵し、紀伝道(文章道)を学ぶ。

正元元年(1259年)に民部少輔に任じられ、近衛家鷹司家家司となり、弘安元年(1278年)より鷹司兼平近衛家基の執事を務めた。

弘安3年(1280年)に兄兼頼蔵人頭右大弁在任中に没すると嫡子として扱われ、弘安7年(1284年)に蔵人に任ぜられ、同10年に右少弁正応元年(1288年)に左少弁、翌年には右中弁左中弁に、その翌年には右大弁左大弁に任じられ、春宮亮も兼任、正応4年には蔵人頭に任じられた。

この間に左右宮城使や造興福寺長官(興福寺造寺司)や亀山上皇院司も兼ねている(『勘仲記』の記事より同時に後深草上皇室町院の院司も兼ねていたとみられている[4])。正応5年(1292年)に日野資宣の死により日野長者と任じられ、同年11月5日に蔵人頭から参議に任ぜられ、翌永仁元年(1293年)には従三位に叙せられて権中納言となる。

永仁2年(1294年)に権中納言を辞任するが正三位に叙され、正安元年(1299年)には従二位に叙せられた。嘉元3年(1305年)に日野長者を日野俊光に譲り、徳治3年(1308年)に出家して間もなく病死した。

兼仲記

編集

日記『兼仲記』を残した。日記は不要となった紙の裏を再利用したもの(紙背文書)である。日記そのものからではないが、紙裏からは康和地震1099年)における土佐国津波被害の状況が見出されている[5]

系譜

編集
  • 父:広橋経光(1212-1274)
  • 母:藤原親実の娘
  • 妻:源親時の娘
  • 生母不明の子女
    • 男子:広橋光資
    • 男子:宗昭
    • 男子:時兼
    • 女子:参議藤原嗣実室
    • 女子:典侍
    • 女子:左兵衛督藤原氏家室

脚注

編集
  1. ^ 参議
  2. ^ 典侍
  3. ^ 左兵衛督
  4. ^ 佐々木宗雄『日本中世国制史論』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02946-9 P209-215
  5. ^ 安田政彦『災害復興の日本史』p16 吉川弘文館 2013年2月1日発行 全国書誌番号:22196456
先代
広橋兼頼
広橋家当主
4代
次代
広橋光業