平城天皇
平城天皇(へいぜいてんのう、旧字体:平󠄁城天皇、774年9月25日〈宝亀5年8月15日〉- 824年8月5日〈天長元年7月7日〉)は、日本の第51代天皇(在位:806年4月9日〈延暦25年3月17日〉- 809年5月18日〈大同4年4月1日〉)。諱は小殿(おて)、後に安殿(あて)。
平城天皇 | |
---|---|
即位礼 | 806年6月8日(大同元年5月18日) |
大嘗祭 | 808年12月5日(大同3年11月14日) |
元号 |
延暦 大同 |
時代 | 平安時代 |
先代 | 桓武天皇 |
次代 | 嵯峨天皇 |
誕生 | 774年9月25日(宝亀5年8月15日) |
崩御 |
824年8月5日(天長元年7月7日) 平城宮 |
大喪儀 | 824年8月10日(天長元年7月12日) |
陵所 | 楊梅陵(やまもものみささぎ) |
和風諡号 | 日本根子天推国高彦天皇 |
追号 | 平城天皇 |
諱 | 小殿(おて)、後に安殿(あて) |
別称 | 奈良帝 |
元服 | 788年2月26日(延暦7年1月15日) |
父親 | 桓武天皇 |
母親 | 藤原乙牟漏 |
皇后 | 藤原帯子(贈皇后) |
子女 |
高岳親王 阿保親王 ほか(后妃・皇子女節参照) |
皇居 | 平安宮 |
来歴
編集延暦4年(785年)11月25日、叔父の早良親王に代わり立太子する。しかし病弱だった上に父との関係も微妙であり、『日本後紀』によれば、延暦12年(793年)に春宮坊帯刀舎人が殺害された事件の背景に皇太子がいたと噂されたことや、延暦24年(805年)に一時重態であった天皇が一時的に回復したために皇太子に対して参内を命じたのにもかかわらず参内せず、藤原緒嗣に催促されて漸く参内したことなどが記されている。また皇太子時代より妃の母で夫のある藤原薬子を寵愛して醜聞を招き、父より薬子の追放を命じられた上に薬子の夫の藤原縄主を春宮大夫につけられている[注釈 1]。こうした経緯が即位後の平城天皇による桓武天皇の政策の見直しへと反映されたといわれている。
延暦25年(806年)3月17日に父帝が崩御すると同日践祚。改元して大同元年5月18日即位。これ以降即位に先立って践祚を行ないその後に即位式を行うことが制度化したと考えられている。薬子を尚侍として手元に戻す一方、薬子の夫である藤原縄主を従三位に昇進させ大宰帥として九州に赴任させた。
即位当初は政治に意欲的に取り組み、官司の統廃合や年中行事の停止、中・下級官人の待遇改善など政治・経済の立て直しを行い、民力休養に努めた。一方で、薬子とその兄の藤原仲成が宮中で台頭し、兄妹が藤原種継の子でもあったため、『続日本紀』から削除した種継の暗殺事件の記述を復活させた[注釈 2]。
大同4年(809年)4月1日、病気のため在位僅か3年で皇太弟の神野親王(嵯峨天皇)に譲位して上皇となり、嵯峨天皇は平城天皇の子の高岳親王を皇太子に立てた。同年12月、平城上皇は旧都である平城京に移り住んだ。
譲位にも反対していた仲成・薬子兄妹の強い要請を容れ、弘仁元年(810年)9月6日、平安京より遷都すべからずとの桓武天皇の勅を破って平安京にいる貴族たちに平城京への遷都の詔を出し政権の掌握を図った[注釈 3]。しかし嵯峨天皇側に機先を制され、10日には嵯峨天皇が薬子の官位を剥奪。平城上皇側はこれに応じて翌11日に挙兵し、薬子と共に東国に入ろうとしたが、坂上田村麻呂らに遮られて断念、翌日平城京に戻った。平城上皇は直ちに剃髮して仏門に入り、薬子は服毒自殺した。高岳親王は皇太子を廃され[注釈 4]、大伴親王(後の淳和天皇)が立てられた(薬子の変)。
その後も平城上皇は平城京に滞在していたが、「太上天皇」の称号はそのままとされ、嵯峨天皇の朝覲行幸も受けている[注釈 5]。また大宰権帥に遷された阿保親王・廃太子高岳親王の2人の皇子にも四品親王の身位を許されるなど、相応の待遇は保障されていたことが示唆されている[注釈 6]。
系譜
編集平城天皇の系譜 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
|
系図
編集50 桓武天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
51 平城天皇 | 伊予親王 | 万多親王 | 52 嵯峨天皇 | 53 淳和天皇 | 葛原親王 | 良岑安世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
高岳親王 | 阿保親王 | 54 仁明天皇 | 有智子内親王 | 源信 〔嵯峨源氏〕 | 源融 〔嵯峨源氏〕 | 源潔姫 | 恒貞親王 | 平高棟 | 高見王 | 遍昭 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
在原行平 | 在原業平 | 平高望 〔桓武平氏〕 | 素性 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
后妃・皇子女
編集諡号・追号・異名
編集追号の平城天皇は、深い愛着を持った平城京に因むものである。奈良帝(ならのみかど)とも呼ぶ。和風諡号は日本根子天推国高彦尊(やまとねこあめおしくにたかひこのみこと)。
在位中の元号
編集陵・霊廟
編集陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県奈良市佐紀町にある楊梅陵(やまもものみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。遺跡名は「市庭古墳」。
この陵は平城京大極殿跡のすぐ北に位置する。かつては全国最大の円墳と考えられてきたが、昭和37年から38年(1962年 - 1963年)にかけての発掘調査により前方部が平城京築造の際取り壊された前方後円墳だったことが判明したため、この古墳を平城天皇の陵とするのは無理があると考えられるようになったとされる[注釈 7]。
脚注
編集注釈
編集- ^ 薬子の変を嵯峨天皇と重臣による権力掌握のための策謀と考える春名宏昭は桓武天皇が藤原内麻呂の妻である百済永継を寵愛して子供まで儲けた事実があるにも関わらずその事実が棚に上げられていること、そもそもこの話は薬子の変の際に仲成・薬子兄妹を糾弾した嵯峨天皇の詔に登場すること(平城上皇に兵を向けた事実を正当化するため、兄妹が国家を傾けたと主張する必要性があった)、を上げて、これを事実かどうか疑わしいとする[1]。ただし、春名も平城天皇が政略と関係なく好みの女性だけを近づけていたことは認めている[2]。
- ^ これは、早良親王廃太子と平城天皇自身の皇位継承の正当性を示す目的があったとも考えられているが、後に嵯峨天皇によって再度削除されている。
- ^ 薬子の変を嵯峨天皇と太政官による権力掌握のための行動とみる春名宏昭は、『日本後紀』大同元年7月甲辰条を根拠として桓武天皇の崩御後に都を何処に置くかは平城天皇(上皇)に委ねられており、平城京への遷都の詔はそれに基づく正当な決定で、事前に嵯峨天皇や太政官の首脳に相談しなかった落ち度を除いては何ら問題は無かったとしている[3]。一方、西本昌弘は延暦年間末期より流行し、大同2年から3年頃に大きな被害を与えた長期にわたる疫病が桓武天皇末期の徳政相論の一因であると共に平城上皇に平安京の放棄を決断させた要因であるとしている[4]。
- ^ 高岳親王が一連の事件に関与した証拠は存在せず、嵯峨天皇側も藤原仲成・薬子兄妹を首謀者として平城上皇の責任を問わなかったために、廃太子を正当化する根拠が見出せず、新しい皇太子を立てる詔だけが出され、廃太子に関する公式文書は出されなかった[5]。
- ^ 『日本後紀』弘仁2年七月乙巳条・同年9月丁未条から、薬子の変後も平城京の平城上皇の元には参議や近衛少将級以上の武官が近侍していたことが分かる。これは、平城上皇の監視の意味合いがあったと思われるが、同時に天皇と同格とされた太上天皇の身分がそのまま保持されていたためにその品位を維持する意味合いも含まれていたと推測される。ただし、『日本後紀』の両記事は平城京に駐在する官人達の怠慢を責める内容で、彼らのやる気のなさ(裏を返せば、平城上皇に不穏な動きがないこと)をうかがわせる[6]。
- ^ 後に嵯峨天皇が譲位しようとした時に、藤原冬嗣が譲位後の天皇に平城上皇と同じ待遇を与えれば、費用が嵩んで財政が危機に瀕するとして譲位に反対する意見を述べていることなどが、その裏付けとされている。
- ^ ただし、平城天皇の伝記を執筆した春名宏昭は、流用の可能性も排除しない記述をしている[7]。
出典
編集参考文献
編集- 遠藤慶太『平安勅撰史書研究』(皇學館大学出版部、2006年) ISBN 4-87644-131-6
- 春名宏昭『平城天皇』(吉川弘文館〈人物叢書〉、2009年) ISBN 978-4-642-05249-8
- 倉本一宏『敗者たちの平安王朝 皇位継承の闇』(KADOKAWA)〈角川ソフィア文庫〉、2023年)ISBN 978-4044007911