川勝広品
川勝 広品(かわかつ ひろただ)は、江戸時代中期の旗本。秀氏流川勝家(本家)の8代当主。
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 宝暦10年(1760年) |
死没 | 寛政3年2月29日(1791年4月2日) |
別名 | 隼人、縫殿助(通称) |
戒名 | 廣品(法名) |
墓所 | 東京都港区東麻布の瑠璃光寺 |
幕府 | 江戸幕府 旗本 |
主君 | 徳川家治→家斉 |
氏族 | 川勝氏 |
父母 |
父:内田正良、母:伊東長丘の娘 養父:川勝広長 |
兄弟 |
内田正純、馬場正賀、広品、 依田堯道、女子(夏目為毅室) |
妻 | 正室:川勝広長の養女(牛込勝音の娘) |
子 |
広致(婿養子。妻木頼栄の六男)、 女子(広致室)、女子(植村泰邦室) |
生涯
編集宝暦10年(1760年)、下総小見川藩の藩主内田正良の三男として江戸に生まれ、後に川勝広長の婿養子となった。天明元年(1781年)8月6日、初めて将軍徳川家治に謁見した。
寛政2年(1790年)11月8日、義父広長の隠居により、その家督(丹波内2,570石余)を継ぎ、小普請となったが、寛政3年(1791年)2月29日、32歳で没した。法名は廣品。墓所は(東京)芝飯倉の瑠璃光寺。
わずか数ヶ月間の当主であった。無役のままで生涯を終えた。家督は婿養子の広致が継いだ。
参考文献
編集- 『寛政重修諸家譜(第18)新訂』続群書類従完成会、1981年
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