島田重次
島田 重次(しまだ しげつぐ)は、戦国時代から江戸時代初期の旗本。
時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 天文14年(1545年) |
死没 | 寛永14年9月17日(1637年11月3日) |
別名 | 次郎兵衛、次兵衛、治兵衛(仮名)、伊伯(法名、以栢とも記される) |
墓所 | 埼玉県坂戸市の永源寺 |
主君 | 徳川家康→秀忠 |
氏族 | 清和源氏頼光流土岐氏庶流島田氏 |
父母 | 父:島田利秀、母:土屋重信(重俊)の娘 |
妻 | 多田慶忠の娘 |
子 | 春世、成重、直時、利氏[1]、利正、重員 |
人物
編集家系
編集島田氏は美濃守護の一族であった土岐満貞の後裔と称した。三河国設楽郡島田庄(現在の愛知県新城市大字愛郷島田)に住居して以来、「島田」を称したという[2]。最初に島田の地に住した一族は衰退するが、島田氏の名跡は他の土岐氏一族により継がれ、特に土岐光忠(月海太郎とも、土岐頼忠の子)の子の定忠とその子の定俊(矢作太郎)の系統と称した一族は三河国碧海郡矢作庄(現在の愛知県岡崎市南西部矢作川付近)にて、一定の勢力を得ていた。
生涯
編集重次の祖父にあたる十兵衛の代に、勢力を拡大した松平広忠の家臣となった。父の島田右京亮利秀も同じく広忠とその子の松平家康(徳川家康)の使番として仕え、三方ヶ原の戦いでは浜松城の留守居役を務めた[3]。重次もまた父と同じく松平氏に仕え、御使番として鉄砲足軽二十名を預けられ、加えてさらに三十名を加えられた。のち秀忠に附けられ、大坂の陣の際は旗奉行に任ぜられた。
遠江国にて二千石を得ていたが、のち徳川家の関東入府後は武蔵国入間郡坂戸に所領を与えられ、五男の利正らと共に代官としての活動が史料に見られる。関東郡代の伊奈忠次に属して関東総検地を実施した。その他にも干害対策のために上総国山辺郡(現在の千葉県東金市)に雄蛇ヶ池という溜め池を造る指揮を取るなど活躍した。
奥州の大名相馬義胤とは旧縁があったらしく、義胤と利胤(当時は密胤)親子らによる関ヶ原の合戦後の相馬家存続運動に関係し、利胤を本多正信に紹介している。
文禄元年(1592年)、所領の坂戸に菩提寺として長溪山永源寺を建立した。
寛永14年(1637年)、隠居先の坂戸にて、93歳で死去した[4][5]。
長男の春世が寛永11年11月11日に重次に先立って死去しており、春世に男子がおらず、また次男らはそれぞれ取り立てられ別家を興していたため[6]、五男の利正が重次の所領を引き継いだ。
脚注
編集外部リンク
編集- 開基嶋田家の沿革(埼玉県坂戸市) - 長渓山永源寺