島田 一郎(しまだ いちろう、嘉永元年(1848年) - 明治11年(1878年7月27日)は、日本江戸時代末期(幕末)から明治の武士加賀藩士)、陸軍軍人。一名に一良(いちろう)、朝勇(ともいさみ)。大久保利通暗殺の主犯(紀尾井町事件)。

来歴

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嘉永元年(1848年)、現在の石川県金沢市加賀藩足軽の子として生まれた。

元治元年(1864年)、長州征伐で初陣。明治元年(1868年)、北越戦争長岡藩が遺棄した兵糧の確保等の功で翌年に御歩並(おかちなみ)に昇格。

廃藩置県後、陸軍軍人を目指してフランス式兵学を修め、中尉にまで昇進するがその後に帰郷。不平士族の一派三光寺派のリーダー格として萩の乱西南戦争に呼応し挙兵を試みるが断念。その後、方針を要人暗殺に切り替え、明治11年(1878年5月14日長連豪等と共に大久保利通を東京紀尾井町の清水谷付近で暗殺(「紀尾井坂の変」と言われるが暗殺現場は紀尾井坂ではない)。事件後に自首し、同年7月27日午前10時頃に死刑を宣告されると同日午前11時半に市ヶ谷監獄にて他の5人と共に謀殺罪により斬首刑に処せられ、31年の生涯に幕を閉じる。

島田一郎等6名の墓所は東京谷中霊園にあり、6本の墓石が並んでいる。

エピソード

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  • 台湾の役、征韓の時に東西を奔走し、有志を募って征韓論を主張した。
  • あだ名は「西洋犬」だった。
  • 家督を長男に譲って隠居して、遊歴と称して4月15日に東京へ向かい、その後大久保暗殺の犯行に及んだ(朝野新聞・明治11年6月9日付)。
  • 大久保暗殺当日、島田は無地の羽織姿だった(東京日日新聞・明治11年5月15日付)。
  • 大久保暗殺時、島田は懐中に短銃を所持していたが結局使わなかった(東京日日新聞・明治11年6月1日付)。
  • 彼の斬首を行った9代目山田浅右衛門によると、斬首される直前に「愛国の諸君、御先に御免」と共に処刑される仲間達に向かって叫び、「何か申し残すことは」と問いかけても首を振って「ここに及んで申し残すことはない」と淡々と述べたという。
  • 辞世の歌は明治18年8月4日発行の「自由燈」によれば「あらうれし 花の都に つきにけり 屍を晒す 処と思へば」
  • もう一つ有名な辞世の歌は「かねてより 今日のある日を 知りながら 今は別れと なるぞ悲しき」
  • 明治8年(1875年)8月23日の土佐立志社が開いた全国愛国社集会に加賀代表で参加する。
  • 妻は同じく加賀出身のひら子。島田の死後、小学校教師として身を立てた。明治43年発行の新聞記事によると、明治8年(1875年)に武田耕雲斎の娘ミネと結婚したことになっている[1]が誤りである。[要出典]

登場する作品

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脚注

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  1. ^ 新聞集成明治編年史. 第十四卷』p.221