島津久龍
島津 久龍(しまづ ひさたつ)は、江戸時代前期から中期の薩摩藩士。都城私領主である都城島津家19代当主。
島津久龍像(都城島津家資料館所蔵) | |
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
生誕 | 延宝6年(1678年) |
死没 | 元文5年1月20日(1740年2月17日) |
改名 | 幸寿丸(幼名)→忠置(初名)→久龍 |
別名 | 権十郎、伊豆(通称) |
戒名 | 天徳院殿哲山玄高大居士 |
墓所 | 宮崎県都城市都島町の都城島津家墓地 |
主君 | 島津吉貴→継豊 |
藩 | 薩摩藩都城私領主 |
氏族 | 都城島津家 |
父母 | 父:島津久理、母:入来院重頼の娘 |
兄弟 | 万亀、久龍、入来院規重 |
妻 | 正室:前田時尚の娘 |
子 | 御山、阿久里、松次郎、於竹、御熊、於栄、久道、久茂、久綿 |
生涯
編集延宝6年(1678年)、18代当主島津久理の長男に生まれる。貞享5年(1688年)、鹿児島に於いて祖父であり二代藩主島津光久の加冠により元服し、忠置と名乗る。
元禄13年(1700年)、従兄の島津綱貴に随って江戸へ赴き、将軍徳川綱吉に拝謁し、太刀、馬代金、小袖を献上する。元禄15年(1702年)、久理の隠居に伴い都城島津家を相続する。同16年(1703年)、都城家歴代の家宝を近衛家を通じて天覧に供し、叡感の宸筆を賜る。宝永3年(1706年)、家臣の永井常喜(慶竺)に命じ、高麗虎狩図屏風を描かせる。この屏風は都城島津家に現存している。
正徳3年(1713年)、島津宗家から都城家の嫡男は「久」の字、次男以下は「資」の字を用いるよう命ぜられたので、「忠置」を「久龍」に改める。
享保2年(1717年)、将軍家から島津宗家に判物が下された謝礼を言上するため、島津宗家の代理として江戸へ赴き、将軍徳川吉宗に拝謁する。
元文5年(1740年)、63歳で死去。龍峰寺に葬られた。
参考文献
編集- 瀬戸山計佐儀『都城島津家歴代史 全』三州文化社、1992年
- 『都城市史』
- 『都城盆地 史跡ガイドブック ①旧都城市編』南九州文化研究会、2014年