岡村 喬生(おかむら たかお、1931年10月25日 - 2021年1月6日[1])は、日本のバス歌手。NPOみんなのオペラ・芸術総監督。東京都出身。

岡村 喬生
生誕 (1931-10-25) 1931年10月25日
出身地 日本の旗 日本東京府
死没 (2021-01-06) 2021年1月6日(89歳没)
学歴 早稲田大学第一政治経済学部新聞学科
ジャンル オペラ
職業 声楽家
活動期間 1960年 - 2020年
公式サイト 岡村喬生公式ホームページ

人物

編集

東京府出身で4歳の時、銀行員だった父の転勤で北海道に移住。

小中学校時代を札幌、小樽、室蘭、留萌深川などで過ごし、旧制札幌市立中学在学中に学制改革に遭い、新制高校2年の時に上京して開成高等学校に転入。開成高校時代は応援団に所属。開成高校卒業後、現役で早稲田大学第一政治経済学部新聞学科に入学。当初は新聞記者志望だったが、声の大きさが注目されてグリークラブに誘われ、バリトン歌手として音楽活動を開始。早稲田大学在学中、東京放送合唱団に準団員として迎えられ、齋藤秀雄の指導を受ける。

大学卒業後はNHK朝日新聞日本航空の入社試験に失敗し、東京放送合唱団に正団員として就職、NHK招聘の第2次イタリア歌劇団公演で唯一の日本人ソリストとしてマリオ・デル・モナコティト・ゴッビと共演。

1959年、政府給費留学生としてイタリアに渡り、ローマサンタ・チェチーリア音楽院声楽科卒を経て[2]ウィーン国立音楽アカデミーリートオラトリオ科修了。

1960年イタリアヴィオッティ国際音楽コンクール声楽部門で金賞[3]フランストゥールーズ国際声楽コンクールで優勝した。

1966年オーストリアリンツ市立歌劇場を皮切りに、西ドイツのキール、ケルン両歌劇場の専属第一バスとして活動。また、ローマ、パリ、ベルリン、ミュンヘン、ブリュッセル、ザグレブなどを経てヨーロッパ各地で第一バスとして活躍した。

1973年、イシュトヴァン・ケルテステルアヴィヴの海岸で溺死した時一緒にいた[4]

1979年に日本へ帰国。オペラだけでなく、執筆、講演会、テレビ番組の司会やドラマ、映画などで活躍し、CDだけでなく、本を出している。

2021年1月6日、慢性腎不全のため死去[1][5][6]。89歳没。

テレビ出演

編集
ワイドショー
テレビドラマ

映画出演

編集
2011年にイタリアで行われたプッチーニ音楽祭において、プッチーニ作曲のオペラ「蝶々夫人」の外国における日本誤認の扱いを是正すべく、同作品の上演を演出した時の密着ドキュメンタリー作品。

著書

編集
  • 『ヒゲのオタマジャクシ世界を泳ぐ』(新潮社)1983 のち文庫
  • 『オタマジャクシ酩笑曲』黒鉄ヒロシイラスト 新潮社 1984
  • 『渡る世界にオニはない ヒゲのオタマジャクシの食・旅そして歌』読売新聞社 1988
  • 『Viva opera 魅惑のオペラへの招待』主婦の友社 1990
  • 『岡村喬生の本音のコラム101話』東京新聞出版局 1990
  • 『三つの頑張らない人生』(近代文芸社)1996 
  • 『オペラの時代に 歴史と名作を楽しむ』(新潮選書)1998 
  • 『歌うオタマジャクシ世界奮泳記』(東京新聞出版局)2001 

出典

編集
  1. ^ a b “オペラ歌手の岡村喬生さん死去 イタリアでプッチーニ賞受賞”. 中日新聞 (中日新聞社). (2021年1月8日). https://web.archive.org/web/20210108082451/https://www.chunichi.co.jp/article/182496 2021年1月8日閲覧。 
  2. ^ Takao Okamura: Puccini visto dal Giappone”. 日本文化会館. 2015年2月21日閲覧。
  3. ^ 外部リンクでは岡村の名はないが、「歌うおたまじゃくし、世界奮泳記」にはその顛末がすべて書かれており、『一位がなく、二位が3人、三位が4人で、僕の順位は全体の9位であった』ことが書かれている。当時はファイナリストに金銀銅のメダルを送るシステムであった。
  4. ^ 『ヒゲのオタマジャクシ世界を泳ぐ』
  5. ^ "岡村喬生さんが死去 日本代表するオペラ歌手". 産経ニュース. 産経デジタル. 8 January 2021. 2021年1月8日閲覧
  6. ^ “岡村喬生さん死去 89歳 国際的オペラ歌手”. 東京新聞. (2021年1月9日) 
  7. ^ 『プッチーニに挑む ~岡村喬生のオペラ人生~』
  8. ^ カールCM年表”. カール おらが村. 株式会社 明治. 2021年1月8日閲覧。

外部リンク

編集