山田町立船越小学校
山田町立船越小学校(やまだちょうりつ ふなこししょうがっこう)は、岩手県下閉伊郡山田町にあった公立小学校。通称「船小(ふなしょう)」。
山田町立船越小学校 | |
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過去の名称 |
船越学園 船越尋常小学校 船越尋常高等小学校 船越国民学校 船越村立船越小学校 |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 山田町 |
併合学校 | 田の浜尋常小学校 |
設立年月日 | 1875年9月25日 |
閉校年月日 | 2024年3月31日 |
共学・別学 | 男女共学 |
学期 | 3学期制 |
学校コード | B103248200023 |
所在地 | 〒028-1371 |
岩手県下閉伊郡山田町船越10地割45番地 | |
外部リンク | 公式サイト(Wayback Machine) |
ウィキポータル 教育 ウィキプロジェクト 学校 |
歴史
編集創立
編集1875年(明治8年)9月25日創立[1][2]。校舎は海岸から170メートル、標高13メートルに位置した[3]。
震災
編集2011年(平成23年)3月11日、東日本大震災が発生。船越小学校校内には、既に帰宅していた1年生や欠席者ら15人を除く159人の児童がいた[4]。船越小学校は町指定の緊急避難場所となっており、教職員12人は避難マニュアルに従って児童らを校庭北側に集めた[4]。地元校務員が船越湾の防潮堤まで行き、野島から四十八坂海岸の水平線が盛り上がっている様子を確認し、校長に再避難を進言して小学校北側の裏山に避難した[4]。その5分後に津波が到達し、鉄筋コンクリート2階建て校舎の2階床上にまで到達した[4]。船越小学校では遡上高18メートルに達し[4][3]、昇降口付近には住民ら約30人が避難していたとみられ、再避難が間に合わず小学校周辺で犠牲になった住民約20人のうち一部は校舎内に逃げ込んでいたとみられている[5][3]。児童や教職員らは午後5時に麓に降り、民家3軒が宿泊を引き受けた[6]。翌日、船越半島の付け根の浸水地帯を歩いて北上し、船越保育園で児童は保護者と対面した[6]。
船越小学校では帰宅者6人、欠席早退者9人、裏山避難前に保護者に引き取られた23人全員が無事で、児童や教職員は一人も犠牲にならなかった[6]。
津波による被災後、約4km離れた県立施設の「陸中海岸青少年の家」を仮校舎として再開した[5]。2012年(平成24年)に被災校舎は解体され、裏山を切り崩した標高24メートル地点を建設地とし、2014年(平成26年)2月に鉄筋コンクリート造2階建ての新校舎が完成した[5]。
閉校
編集急速な人口減により、2024年(令和6年)3月23日に閉校式が行われた[1]。3月31日をもって閉校し、翌4月に山田小学校へ統合された[7][8]。
校舎は2025年度から教育支援施設として利用されることとなった[9]。
周辺
編集- 前須賀コミュニティセンター
- 舘山八幡宮
- 月松山海蔵寺
脚注
編集- ^ a b “震災後に再建したが……創立149年の船越小が閉校”. 朝日新聞. 2025年1月11日閲覧。
- ^ “船越小学校沿革”. 山田町立船越小学校ホームページ. 山田町立船越小学校. 2006年2月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年1月12日閲覧。
- ^ a b c 堀合紳弥、武山泰. “岩手県山田町を対象とした津波避難に関する防潮堤の影響要因と復興後の住民意向の関係”. 第61回土木計画学研究発表会・講演集. 2025年1月11日閲覧。
- ^ a b c d e “震災記録誌 3・11 残し、語り、伝える 岩手県山田町東日本大震災の記録”. 山田町. pp. 96-97. 2025年1月11日閲覧。
- ^ a b c “震災記録誌 3・11 残し、語り、伝える 岩手県山田町東日本大震災の記録”. 山田町. pp. 96-97. 2025年1月11日閲覧。
- ^ a b c “震災記録誌 3・11 残し、語り、伝える 岩手県山田町東日本大震災の記録”. 山田町. pp. 98-99. 2025年1月11日閲覧。
- ^ “学校一覧 令和6年度”. 岩手県. p. 15. 2025年1月12日閲覧。
- ^ 「小学校の新校舎が完成 児童らは新学期からの生活にわくわく 岩手・山田町」『岩手放送』2024年7月29日。2025年1月12日閲覧。
- ^ “旧船越小が「学びや」として再出発 山田の震災復興シンボル”. 岩手日報. 2025年1月11日閲覧。
関連項目
編集外部リンク
編集- 山田町立船越小学校ホームページ(Wayback Machine・2006年2月21日アーカイブ分)