山崎義俊

江戸時代中期の交代寄合表向御礼衆

山崎 義俊(やまざき よしとし)は、江戸時代中期の交代寄合表向御礼衆。備中国成羽領5代領主。

 
山崎 義俊
時代 江戸時代中期
生誕 元文5年7月11日1740年8月3日
死没 享和元年7月8日1801年8月16日
改名 (初名)幸之助、(家督相続前)久留島通有
別名 (通称)主税助
戒名 天覚院風外勧月
墓所 岡山県高梁市成羽町下原の桂巖寺
官位 なし
幕府 江戸幕府
主君 徳川家重家治家斉
氏族 久留島氏近江山崎氏
父母 実父:久留島光通、実母:側室(高野氏)
養父:山崎信盛、養母:仙石政房の娘・弁子
兄弟 久留島通祐義俊久留島通同、女子(青木一新正室)、女子(渡辺信綱継室)、女子(高井綽房正室)、女子(青木直美正室)、女子(久留島通高正室)、女子(高井綽房養女)ら
黒田長邦の娘・此子
義孝黒田長堅義苗義徳、女子(早世)、義進、女子(松平康盛正室)、女子(戸川達邦正室、死別後久留島通正正室)、女子(松平正直正室、のち離縁)
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生涯

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元文5年(1740年7月11日豊後国森藩5代藩主久留島光通の六男として江戸にて生まれる。母は光通の側室高野氏。初名は久留島通有[1]。実兄に豊後国森藩6代藩主久留島通祐、実弟に豊後国森藩7代藩主久留島通同、義兄に摂津国麻田藩8代藩主青木一新和泉国伯太藩3代藩主渡辺信綱らがいる。正室は筑前国秋月藩5代藩主黒田長邦の娘・此子。この婚姻関係により筑前国秋月藩6代藩主黒田長恵出雲国広瀬藩6代藩主松平近貞上総飯野藩7代藩主保科正率らと義兄弟の関係となった。尚、久留島家と山崎家は遠縁に当たる。久留島光通の義父・森藩4代藩主久留島通政の継室(土佐国高知藩4代藩主山内豊昌の養女)の義姉が讃岐国丸亀藩2代藩主京極高豊の正室となっている。この京極高豊の四男が讃岐国多度津藩初代藩主京極高通であり、その正室は備中国成羽領2代領主山崎義方の娘である。

宝暦8年(1758年)12月3日、父光通の義妹(従妹)の夫で備中国成羽領3代領主山崎尭治の嫡男山崎信盛が急逝したため、末期養子として成羽領5,000石の家督を相続した。家督相続の際に改名し山崎義俊となった。宝暦9年(1759年)3月15日、家督相続許可の御礼として9代将軍徳川家重に拝謁している。同年6月12日、幕府の許可を得て成羽へのお国入りを果たす。領主在任中は養父信盛と同様に罪人預かりなどを命じられている。安永7年(1778年)12月12日、幕府に隠居を願い出て許されたため、家督である成羽領5,000石を長男義孝に譲り隠居した。ただ長男義孝は翌年早世し、さらにその遺跡を継いだ次男義苗、四男で筑前国秋月藩主の黒田長堅も相次いで早世するなど、息子達に次々先立たれ不幸が続いた。最終的に三男義徳が成羽領5,000石の家督を継承した。享和元年(1801年7月8日、江戸にて死去。享年62歳[2]

系譜

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脚注

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  1. ^ 寛政重脩諸家譜. 第3輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2021年3月13日閲覧。
  2. ^ 画像表示 - SHIPS Image Viewer”. clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp. 2021年3月13日閲覧。
  3. ^ 画像表示 - SHIPS Image Viewer”. clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp. 2021年3月13日閲覧。

参考文献

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