山内豊昌
土佐高知藩4代藩主。山内忠豊の長男。従四位下筑後守、侍従兼土佐守
山内 豊昌(やまうち とよまさ)は、土佐国高知藩(土佐藩)の第4代藩主。
山内豊昌像(土佐山内家宝物資料館蔵) | |
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
生誕 | 寛永18年8月29日(1641年10月3日) |
死没 | 元禄13年9月14日(1700年10月25日) |
改名 | 国松(幼名)→豊昌 |
戒名 | 覆戴院含弘周徳 |
墓所 | 高知県高知市天神町の真如寺 |
官位 | 従四位下筑後守、侍従兼土佐守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家綱→綱吉 |
藩 | 土佐藩主 |
氏族 | 山内氏 |
父母 |
父:山内忠豊 母:池田利隆の娘・長姫 |
兄弟 | 豊昌、フウ、松、椎ら |
妻 |
正室:松平定頼の4女・仙寿院 側室:法雲院 |
子 |
多代、玉姫、阿部正邦正室、女子 養子:豊房、休 |
生涯
編集寛永18年(1641年)8月29日、第3代藩主・山内忠豊の長男として生まれる。明暦3年(1657年)に元服し、寛文9年(1669年)6月15日の父の隠居により家督を継いだ。藩主権力の確立のために、天和元年(1681年)に地方知行制を蔵米支給制に改め、天和3年(1683年)以後は年々の年貢を平均して徴収する平等免制度とした。元禄3年(1690年)には「元禄大定目」を制定して、藩士や領民の生活を統制する。また、豊昌は剣術の達人で、武術を奨励した。
しかし元禄元年(1688年)、支藩中村藩の改易、藩政改革における交通路改築の失敗、さらには自らの能楽・食道楽による藩財政悪化、山林荒廃を招くなどの失政もあった。これら一連の改革を天和の改革という。
元禄13年(1700年)9月14日に江戸で死去した。享年60。男児がなかったため、分家の山内豊房を婿養子として跡を継がせた。
人物
編集系譜
編集脚注
編集- ^ 武市佐市郎、『武市佐市郎集 風俗事物編』、高知市民図書館、平成7年3月15日発行、P227。