山内量平
山内 量平(やまのうち りょうへい、1848年9月5日[1](嘉永元年8月8日) - 1918年(大正7年)11月11日)は、明治時代に活躍した、日本福音ルーテル教会における日本人最初の牧師である。妹の季野は植村正久妻である。
やまのうち りょうへい 山内 量平 | |
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生誕 |
1848年9月5日 日本紀伊国日高郡北道村(現 和歌山県日高郡みなべ町) |
洗礼 | 1884年 |
死没 |
1918年11月11日(70歳没) 日本和歌山県田辺 |
国籍 | 日本 |
別名 | 憲孝(諱)、亮次郎(幼名) |
職業 | 教師、牧師 |
配偶者 | 川瀬幹枝 |
子供 | 山内綾(養女)、鈴木直丸(娘婿) |
親 | 父:繁憲、母:三千代 |
家族 | 植村季野(妹) |
来歴
編集初期
編集嘉永元年8月7日(1848年9月4日)神職・山内繁憲の二男として、紀伊国日高郡北道村(現 和歌山県日高郡みなべ町)に生まれた。諱は憲孝、幼名は亮次郎。のち「量平」と改める[1]。母は紀伊藩御典医・野上応聞の長女・三千代[2]。山内家は醸造業「松屋」を営む素封家で、郷社「須賀神社」の祠掌に出仕する家柄であった。
教師時代
編集長じて、紀伊田辺藩の藩校・修道館の教師となり、明治維新以降は巡査部長として奉職するが、明治12年(1879年)父繁憲の死去に伴い官を辞して家業を継いだ。
明治14年(1881年)5月17日、紀伊国日高郡志賀村(現 和歌山県日高郡みなべ町)の庄屋川瀬六郎左衛門の娘・川瀬幹枝と婚姻。
キリスト教入信
編集のち税吏と諍いを起こして出荷停止の措置を受け、それが基で信用失墜と損失を蒙って零落するが、カンバーランド長老教会の宣教師J・B・ヘールと協力者大石余平の教えにより回心する。
明治17年(1884年)に洗礼を受けて、田辺教会の長老になる。明治20年(1887年)に東京に移り深川教会の長老になる。妹が日本基督教会の植村正久と結婚した関係で、植村正久の『日本論評』『福音新報』の出版を手伝う。
ルーテル教会の最初の宣教師ジェームス・シェーラーの日本語教師になる。シェーラーたちが佐賀の伝道に赴いたので、山内一家も同行する。養女・山内綾が鈴木直丸と結婚して、直丸が山内姓を名乗る。
明治27年(1894年)、マルティン・ルターの教義を和訳した『十字教会教理問答』を著わす。
牧師時代
編集明治32年(1899年)、山内量平と娘婿の山内直丸が按手礼を受けて、日本福音ルーテル教会の最初の牧師になる[3]。佐賀教会の教会創設に尽力する。
明治38年(1905年)には博多の伝道に携わり、大正5年(1916年)に博多教会の会堂を建設する。大正6年(1917年)には大阪伝道を始め、天王寺村、大阪市南区烏森に講義所を建てる。しかし、体調を崩し翌大正7年(1918年)には伝道を引退し、9月18日に故郷の紀州田辺で昇天。享年71歳。
家系
編集山内家の祖は相模国山之内荘を貫して氏と為した。本姓は藤原氏である。先祖が相模国より伊勢に遷り、天正5年(1577年)紀伊国南部郷に来住して松原を開墾し一村を築いた。現在の和歌山県日高郡みなべ町大字山内である[1]。量平の先祖の歴代墓はみなべ町の新福寺にあり、祖父・父の墓は法伝寺にある。祖父・山内繁樹の墓はみなべ町文化財に指定されている[1]。