小野 忍(おの しのぶ、1906年(明治39年)8月15日 - 1980年(昭和55年)12月18日[1])は、日本中国文学者東京大学名誉教授

小野 忍
人物情報
生誕 1906年8月15日
日本の旗 日本
東京都
死没 (1980-12-18) 1980年12月18日(74歳没)
出身校 東京帝国大学
学問
研究分野 文学(中国文学)
研究機関 東京大学
和光大学
学位 文学博士
称号 東京大学名誉教授
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経歴

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出生から修学期

1906年、東京神田で生まれた(広島県呉市出身)[2]。1926年に松山高等学校を卒業し、東京帝国大学文学部支那文学科に入学。塩谷温に師事し、1929年に卒業。

中国研究者として(戦前)

アプトン・シンクレアの評伝の翻訳などをした後、1934年に冨山房に入社。百科辞典の編纂に携わったほか、戦時中には満鉄調査部員として上海に駐在したり、民族研究所嘱託として内モンゴル西北研究所に出向し現地で中国ムスリムの調査に参加するなどした。

太平洋戦争後

1946年より國學院大學で講師を務めたのを皮切りに、東京大学九州大学京都大学などで非常勤講師を務めた。1952年、東大東洋文化研究所専任講師に就いた。1955年東京大学文学部助教授となり、1958年に教授昇格。同年5月、学位論文『中国現代文学の研究』を東京大学に提出して文学博士学位を取得[3]1967年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。

その後は和光大学教授として教鞭を執った。退任時の公演は「駱賓基中国語版について」であった[4]。和光大学を退職後、岩波文庫(全10巻予定)で『西遊記』の全訳を目指していたが、3巻目まで刊行した後[5]、1980年に急逝した。

著述活動

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博覧強記で知られ、幸田露伴の知遇を得るなど交遊も広かった。語学にも堪能で、中国語英語ロシア語を読解出来た。中国現代文学の研究で頭角を現し、翻訳も多数。趙樹理駱賓基中国語版茅盾といった、当時日本ではほぼ知られていなかった多くの作家たちを日本に紹介した。さらに当時新発見だった原本テキストによる『金瓶梅』の翻訳(共訳)や、未完だったが『西遊記』の翻訳にも着手。異版の多い両著作の校訂版を目指した。

蔵書は没後、和光大学附属梅根記念図書館に収められた。

著作

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著書
編著
訳書

参考文献

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  • 「小野忍先生追悼録」『東方学』第62号, 1981年7月
  • 「追悼 故小野忍教授」『和光大学人文学部紀要』第16号, 1981年
  • 斎藤秋男1981「追悼・小野忍さん:一周忌を前にして」『中国研究月報』第405号

脚注

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  1. ^ 小野忍』 - コトバンク
  2. ^ 『新・人国記』 朝日新聞社 1963年5月 271頁
  3. ^ CiNii(学位論文)
  4. ^ 故小野忍教授最終講演筆記『和光大学人文学部紀要』16, 1981年
  5. ^ 4巻目は、ペラ約270枚で未完の原稿が残されていた。残りは中野美代子が引き継いで刊行を再開。1986年に第4巻を刊行(10巻目完結は1998年)