小泉荘 (信濃国)
歴史
編集古代東山道の通過点にある、『和名類聚抄』の「福田郷」にほぼ一致する[1]。『吾妻鏡』文治2年3月12日(1186年4月3日)条に後白河法皇から源頼朝に示された「関東御知行国々内乃具未済庄々注文」では一条大納言領[2]、領家はその子である法勝寺執行尊長であった[3]。
地頭の泉親衡は建暦3年(1213年)、泉親衡の乱を起こして執権北条氏に反旗を翻したが鎮圧され、小泉荘は北条泰時が没収した。『吾妻鏡』延応元年(1239年)7月15日条で、泰時は荘内の室賀郷の水田6町6段を不断念仏料所として善光寺に寄進した[4]。念仏衆12人も定め、6町は念仏僧侶の給免、6段は仏性灯油の料田である。
嘉暦4年(1328年)の「諏訪大社造営目録案」では、荘内の前田(舞田)、岡を泉小二郎、加畠(神畑)、室賀、神子田(仁古田)を海野信濃権守(海野氏)、上田原、津井地(築地)、保野を工藤薩摩守(薩摩氏)が分割知行し、諏訪大社への神役を勤仕している[5]。南北朝時代初期には足利尊氏の所領となっており(『比志島文書』)、元弘3年(1333年)家臣の安保光泰(武蔵安保氏)に室賀郷が安堵されている[6]。
戦国時代以降は武田氏の支配地となり、荘園は解体され、天文22年(1553年)小泉氏に所領が安堵されているが、居城の小泉城は破却されている。
脚注
編集参考文献
編集- 『上田市誌 歴史編4 上田の荘園と武士』
- 『長野県史 通史編 第2巻 中世1』
- 『日本歴史地名大系 20 長野県の地名』(平凡社、1979年)