安保氏/阿保氏(あぼし)は、武蔵七党の一角を占める武士団である丹党を構成する氏族。

安保氏/阿保氏
丹文字たんもじ
本姓 多治比氏
家祖 安保実光
種別 武家
出身地 武蔵国賀美郡安保郷
主な根拠地 武蔵国
著名な人物 安保実光
支流、分家 称・大田原氏武家
凡例 / Category:日本の氏族

出自の伝承と歴史概要

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秩父綱房(元、丹綱房、のちの新里恒房)の次男である安保実光が氏祖であり、本貫地武蔵国賀美郡安保郷で、現在の埼玉県神川町大字元阿保上宿に居館を構えた。菩提寺は安保山吉祥院真光寺で、氏祖実光建立と伝えられる。実光は、一ノ谷の戦いを初め、奥州合戦にも参戦した武将だが、承久の乱の時、宇治川にて討ち死した。その後、阿保氏の惣領家は鎌倉幕府の崩壊にともない、北条氏と共に滅んだ。惣領家が滅んだ後、足利尊氏の先陣で勲功のあった分家筋である安保光泰(阿保氏6代目)が旧領を与えられ、惣領家の後を継ぐ事となる。光泰の子である直実(阿保氏7代目)は不孝者とされた為、惣領家の所領を得られず、光泰の後は泰規が継ぐ事となった。直実は幸春院(道雲寺)を1320年14世紀初め)に建立している。一方、泰規は大恩寺(安保氏館跡の南西部に寺跡がある)を建立したが、近世になると廃寺となった。泰規以後は南北朝の動乱もあり、所領の没収と還付を繰り返す事となる(延元2年の安保原合戦も経験したものと見られる)。丹党は南朝に属していたが、安保氏は足利氏北朝に属して戦った為、他の氏族と違い、所領を永く維持する事に成功している(早くに丹党から独立した氏族と言える)。戦国期では、初め上杉氏方であったが、最終的には後北条氏方に属し、従えている。戦国期の安保氏は在地土豪を家臣団として編成し、小大名的な存在にまでなっていたが、永禄12年(1569年)、武田信玄御嶽城攻略を最後に姿を消す事となる。

安保氏略系図

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2代以降は分家筋の流れを記載す。

初代 安保実光
2代 安保実員(実光の七男)
3代 安保泰実
4代 安保頼泰
5代 安保経泰
6代 安保光泰(惣領家の後を継ぐ)
7代 安保泰規
8代 安保憲光
9代 安保宗繁
10代 安保憲祐
11代 安保氏泰
12代 安保泰広
13代 安保泰忠
14代 安保晴泰
15代 安保光泰

所領

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安保氏の所領は、本貫地である安保郷を中心に始まり、中世を通して拡大していった。武蔵国内での所領は、児玉郡の塩谷郷・長茎郷・宮内郷・太田村(郷)・蛭川郷・阿久原郷・円岡郷、秩父郡の三沢村(郷)・長田郷・大河原郷・大路沢村(郷)・岩田郷・白鳥郷・井戸郷、榛沢郡の滝瀬郷・騎西部・大井郷・成田郷の箱田村、平戸村である。

安保氏の一族は、信濃国、出羽国、備中国、播磨国、陸奥国にも所領を得ている。

その他

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  • 安保氏館跡の北側には、「産塚」と呼ばれる塚があり、伝承として、その昔、館が攻められ、不意を襲われた為、正妻が戦いに利があらずと察し、井戸に身を投げ、自害した。その時身重の側室は捕らえられ、この塚まで連れられ、生き埋めにされた。これを弔う為、塚に産八幡様を祀り、霊を慰める様になったとある(『神川町誌』より)。
  • 長浜氏勅使河原氏は、安保氏を盟主として活動している。一族の序列としては、勅使河原氏の方が本宗家に近い立場にあるが、その後、次第に安保氏の権威・権力が強まった為、後世では地位関係が逆転したものと考えられる。
  • 前期安保氏は丹党氏族として活躍したが、後期安保氏は早くに党と言った血族集団(同族意識を持った武士団)から独立した氏族である為、党(本宗家を中心とした組織)の弱体化や滅亡を共にする事はなく、結果として、丹党の氏族の中でも最も栄えた一族となった。早くから党より独立した事で栄えた氏族は他の党でも見られ、児玉党で言えば四方田氏がそれに当たる(こうした氏族は早くから有力者に仕えている)。その為、後期(鎌倉期以後の)安保氏は丹党の氏族として栄えた一族と言うよりは、党より独立してから栄えた一氏族と捉える方が正しい。
  • よくある誤解として、現在の神川町が児玉郡である為、安保氏を児玉党出自の武士であると認識しているものがあるが、そもそも前近代・安保氏が活動していた中世当時において、児玉郡西部域は賀美郡であって、児玉郡ではない。丹党は秩父郡を拠点としていた武士団であり、児玉党と同様、所領を求め、武蔵国北部域に領地を拡大していった。その為、丹党氏族も北上し、安保氏が土着するに至った。

参考文献

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  • 神川町遺跡調査会発掘調査報告第5集 安保氏館跡 1995年 神川町遺跡調査会発刊
  • 福島正義 『武蔵武士 そのロマンと栄光』 ISBN 4-87891-040-2

関連項目

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