三条実房
平安時代末期~鎌倉時代の公卿、歌人。三条公教の三男。正二位・左大臣。日記『愚昧記』。勅撰集『千載和歌集』以下に30首入集。三条家3代。
三条 実房(さんじょう さねふさ)は、平安時代後期から鎌倉時代前期にかけての公卿・歌人。内大臣・三条公教の三男。官位は正二位・左大臣。三条入道左府と号す。日記『愚昧記』を残した[1]。
『天子摂関御影』三条実房 (実房公) | |
時代 | 平安時代後期 - 鎌倉時代前期 |
生誕 | 久安3年(1147年) |
死没 | 嘉禄元年8月17日(1225年9月20日) |
改名 | 実房→清空(法名) |
別名 | 号・三条、三条入道左府 |
官位 | 正二位、左大臣 |
主君 | 鳥羽法皇→近衛天皇→後白河天皇→二条天皇→六条天皇→高倉天皇→安徳天皇→後鳥羽天皇→土御門天皇→順徳天皇→仲恭天皇→後堀河天皇 |
氏族 | 三条家 |
父母 | 父:三条公教、母:藤原清隆の娘 |
兄弟 | 藤原実綱、滋野井実国、琮子、実房、実円、公祐、松殿基房正室、松殿基房室、藤原俊憲室 |
妻 | 藤原経宗の娘 |
子 | 公房、姉小路公宣、正親町三条公氏、公兼、公俊、覚実、公円、覚教、公恵、公深、公豪、公誉、徳大寺公継室、女御代 |
経歴
編集以下、『公卿補任』の内容に従って記述する。
- 仁平2年(1152年)1月9日、叙爵[2]。
- 仁平4年(1154年)1月7日、従五位上[3]。
- 保元元年(1156年)1月27日、侍従。9月17日、左少将。11月28日、正五位下[4]。
- 保元2年(1157年)1月24日、美濃介を兼ねる。11月24日、禁色。
- 保元3年(1158年)1月6日、従四位下。3月13日、右中将に転任。11月26日、従四位上。
- 平治元年(1159年)1月3日、正四位下[5]。
- 永暦元年(1160年)5月10日、蔵人頭。10月3日、従三位。右中将はもとの如し。
- 長寛元年(1163年)1月2日、正三位。同月24日、但馬権守を兼ねる。
- 仁安元年(1166年)6月6日、権中納言。9月4日、帯剣。
- 仁安2年(1167年)1月28日、従二位[6]。2月11日、中納言。
- 仁安3年(1168年)8月10日、権大納言。
- 承安元年(1171年)4月21日、正二位(建春門院去年未給)。
- 寿永元年(1182年)8月14日、皇后宮大夫を兼ねる[7]。
- 寿永2年(1183年)4月5日、大納言。文治元年(1185年)8月9日、母の喪に服す。
- 文治2年(1186年)11月28日、右近衛大将を兼ねる。
- 文治3年(1187年)6月28日、皇后宮大夫を止める。
- 文治4年(1188年)10月14日、左近衛大将に転任。
- 文治5年(1189年)7月5日、任大臣宣旨があり、同月10日に右大臣。左大将は元の如し。12月、左大将を辞した。
- 建久元年(1190年)7月10日、左大臣に転任。
- 建久6年(1195年)9月25日、左大臣を辞する上表[8]を行うも返却される。
- 建久7年(1196年)3月23日、病により上表して左大臣を辞した。4月25日、出家。
- 嘉禄元年(1225年)8月19日、薨去。
歌人として
編集『千載和歌集』に作者名「右近衛大将実房」として次の6首が入集している。
90番 花留客といへる心をよみ侍りける
- 散りかかる花のにしきは着たれども帰らんことぞ忘られにける
140番 暮見卯花といへる心をよみ侍りける
- 夕月夜ほのめく影も卯の花の咲けるわたりはさやけかりけり
362番
- 清見潟関にとまらで行く船はあらしのさそふ木の葉なりけり
458番
- 跡もたえしをりも雪にうづもれて帰る山路にまどひぬるかな
525番 住吉社歌合とて人々よみ侍りける時、旅宿時雨といへる心をよみ侍りける
- 風の音に分きぞかねまし松が根の枕にもらぬしぐれなりせば
947番
- 恋ひわぶる心は空に浮きぬれど涙のそこに身は沈むかな