小松八四郎

日本の陸軍軍人

小松 八四郎(こまつ はちしろう/こまつ やしろう、1875年(明治8年)4月20日[1] - 1962年(昭和37年)10月5日[2])は、日本の陸軍軍人陸軍工科学校長を務めた陸軍少将である。

小松 八四郎
生誕 1875年4月20日
死没 (1962-10-05) 1962年10月5日(87歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1897 - 1923
最終階級 陸軍少将
除隊後 稚松会委員
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生涯

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小池保憲少尉は仙台幼年学校時代に大越兼吉の訓育を受ける。第八師団歩兵第十七連隊第五中隊小隊長。
生い立ち

会津藩藩士の小池家に生まれ、叔父にあたる小松運の養嗣子となる。小池家は平頼盛を遠祖とする家伝を持つ家であった[3]。実父の小池蒲生(保命)は蛤御門の変以来の歴戦の士で、斗南へ移住後、東京で労働者となる。のち警察官に採用され畑能賢や蛤御門で一番槍の功名を挙げた窪田伴治の遺児[* 1]らと同僚となった[4]。小松にとって同年配の、畑英太郎俊六兄弟は竹馬の友であり、「畑の太郎(畑英太郎)さんを見よ」と言われて育った[4]。養父の小松運は西南戦争に出征した陸軍軍医であった[5]

陸軍軍人

幼年学校を経て士官学校へ進み、7期を卒業。同期生に畑英太郎のほか石井常造佐治喜一[* 2]などの稚松会会員がいる。1897年(明治30年)、砲兵少尉に任官[6]。小松の原隊は野砲第二連隊(仙台)で、兵科砲兵である。砲工学校に学び、弘前旭川台湾で野砲部隊に勤務した。日露戦争時は大尉として兵器製造工場の監督[7]などの任にあった。

1907年(明治40年)少佐1914年(大正3年)中佐へ進級し、野砲第二連隊大隊長[8]山砲兵大隊長(久留米)を経て、野砲第二十二連隊長(京都)として海城に駐屯した。1920年(大正9年)12月1日付で工科学校長に就任。1922年(大正11年)8月15日少将へ昇進と同時に待命[9]。翌年3月に予備役となる。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[10]

小松はその編纂によって『小池少尉遺稿 掃露余滴』を遺した。この書は小松の甥で黒溝台会戦で戦死した小池保憲少尉の遺稿である。稚松会創立以来の会員であり、また仙台在住の委員[11]として同郷後進の育成にも携わった。従四位勲三等功五級[1]

脚注

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注釈
  1. ^ 名を重次といい、西南戦争で戦死している。
  2. ^ 陸軍少将。西寛二郎の娘婿。
出典
  1. ^ a b 『陸軍後備役将校同相当官服役停年名簿. 昭和9年4月1日調』
  2. ^ 『日本陸軍将官辞典』314頁。
  3. ^ 『小池少尉遺稿 掃露余滴』
  4. ^ a b 「畑英太郎君を憶ふ」
  5. ^ 発 小松軍医試補 宛 西郷中将 大阪臨時病院附の任御請申上候”. JACAR Ref.C09081135800 請書 3 明治10年6月21日-10年7月31日(防衛省防衛研究所)」. 2014年3月12日閲覧。
  6. ^ 『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿. 大正6年9月1日調』
  7. ^ 『福島誌上県人会』
  8. ^ 『稚松会会誌』明治45年3月発行
  9. ^ 『官報』第3013号、大正11年8月16日。
  10. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」54頁。
  11. ^ 『財団法人 稚松会名簿』 昭和12年12月

参考文献

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  • 福川秀樹 『日本陸海軍将官辞典』芙蓉書房出版
  • 福川秀樹 『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 福島県友会『福島誌上県人会
  • 小松八四郎「畑英太郎君を憶ふ」(『会津会雑誌第三十七号』)

外部リンク

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