石井常造
日本の陸軍軍人
石井 常造(いしい つねぞう、1875年(明治8年)1月2日 - 没年不詳)は、日本の陸軍軍人、生気研究者。基隆要塞司令官を務めた陸軍少将で、また生気自強療法を唱え生気の医療への応用を図った。従四位勳三等功四級[1]。
石井 常造 | |
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所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1897 - 1923 |
最終階級 | 陸軍少将 |
除隊後 |
生気研究所所長 稚松会評議員 |
生涯
編集- 陸軍軍人
福島県若松市に生まれる。福島県士族石井七四郎の長男。陸軍士官学校7期を卒業し、1897年(明治30年)砲兵少尉任官。陸軍大学校在校中に日露戦争開戦を迎え、第2師団砲兵隊に属し出征。遼陽会戦、沙河会戦、黒溝台会戦、奉天会戦と歴戦した。戦後陸大18期を卒業。
陸軍砲工学校教官、対馬警備隊参謀、参謀本部部員、第17師団参謀長[1]を経て、1921年(大正10年)7月、少将へ昇進。同日野戦砲兵第3旅団長に補される。次いで黒河内信次少将の後任として基隆要塞司令官に就任。1923年(大正13年)予備役編入となる。稚松会評議員[2]。
- 生気研究
石井の唱えた『生気自強療法』は身体の神経を動かし運動を起こすことで生気を発生させ、疲労回復、病気治療に効果をもたらすというものであった[3]。麹町に療養所を開設し、また生気に関する著作を刊行している。
栄典
編集- 位階
- 勲章等
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[5]
著書
編集- 『軍人之修養及軍隊教育之真髄』 兵林館、1907年
- 『日露戦役余談』 陸軍大学校将校集会所、 1908年
- 『野戦砲兵戦術 全3巻』 不動書店、1908年
- 『最新基本戦術 前篇』 兵林館、1911年
- 『最新基本戦術 後篇』 兵林館、1912年
- 『修養史談』 兵林館、1913年
- 『奮闘の青年』 東京宝文館、1923年
- 『帝国の危機と国民の覚悟』 東京宝文館、1924年
- 『生気応用家庭看護法』 生気療養研究所、1925年
- 『生気自強療養法』生気療養研究所、1925年
- 『生気自強療法伝習録』 生気療養研究所、1925年
- 『生気自強療法独習録』 生気療養研究所、1927年
- 『生気を基礎とする体育概論』 生気研究社、1928年
- 『生気自強療法綱要』 生気療養研究所、1928年
脚注
編集参考文献
編集- 帝国秘密探偵社『大衆人事録 東京篇』
- 福川秀樹 『日本陸海軍将官辞典』芙蓉書房出版
- 『財団法人 稚松会名簿』