富小路俊通
富小路 俊通(とみのこうじ としみち、嘉吉2年(1443年)頃 - 永正10年3月5日(1513年4月10日))は、戦国時代の公家。藤原通慶の子[1]。宮内卿・源康俊の猶子。後に二条家庶流の石見権守・藤原通治の子とする系図を偽作し、二条家の末裔を自称した[2]。官位は従三位・宮内卿。ただし『公卿補任』には俊通が従三位に叙された記録はない。
時代 | 室町時代中期→戦国時代 |
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生誕 | 嘉吉2年(1443年)頃 |
死没 | 永正10年3月5日(1513年4月10日) |
別名 | 楽縁(法名) |
官位 | 従三位?、宮内卿 |
主君 | 後花園天皇→後土御門天皇→後柏原天皇 |
氏族 | 藤原氏→醍醐源氏→富小路家 |
父母 |
実父:藤原通慶[注釈 1][1] 義父:源康俊 |
兄弟 | 源久任、源政氏、一条兼良室(康俊の実子) |
子 | 資直 |
経歴
編集九条家に諸大夫として仕える一方、修理大夫・宮内卿などを務め、延徳4年(1492年)従四位下、明応4年(1495年)従四位上、明応8年(1499年)正四位下と昇進した。初めは醍醐源氏の宮内卿・源康俊の猶子となるが、後に自身が関白・二条道平の庶子である左衛門佐・藤原道直の後裔であるとする系図を偽作して二条家の庶流を称し、宣下無しに源氏から藤原氏に改姓した[2]。文亀2年(1502年)従三位への上階を請うが、父祖の名前も明らかでない者が公卿の地位を求めたとして、中御門宣胤ら殿上人達から批判を受けている[3][2]。翌文亀3年(1503年)従三位に叙せられて公卿に列したとされるが、『公卿補任』に俊通の名前は見えない。
歌人として文明5年(1473年)の『按察使親長卿家歌合』や明応元年(1492年)の『竹内僧正歌合』などに出詠。連歌作品が『新撰菟玖波集』に採録されている。また『源氏物語』の注釈書『三源一覧』を著した。
官歴
編集注記のないものは『諸家伝』による。
系譜
編集注記のないものは『系図纂要』による。
脚注
編集注釈
編集- ^ 浄土寺門跡侍法師石見法橋