宮井勝成
宮井 勝成(みやい かつなり、1926年4月14日 - 2020年8月7日[1])は、学生野球の指導者、元野球選手。中央大学硬式野球部総監督を務めた。元中央大学硬式野球部監督、元早稲田実業学校硬式野球部監督。
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 東京府(現:東京都杉並区) |
生年月日 | 1926年4月14日 |
没年月日 | 2020年8月7日(94歳没) |
選手情報 | |
ポジション | 外野手、内野手 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
監督・コーチ歴 | |
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この表について
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来歴・人物
編集東京府(現・東京都杉並区)生まれ。早稲田実業時代の1941年、第18回選抜中等学校野球大会で甲子園に出場。1944年に予科練入り。戦後になり中央大学に進学。早実時代は内外野、中大時代は外野手や捕手で主将も務めた[2]。
その後、新日本証券に勤務したが体を壊し2年で退職。実家の寿司屋を営みながら、1954年に恩師・久保田高行監督の誘いで母校・早実コーチに就任。後に体罰問題もあって久保田に代わり、1955年に監督に就任。1957年第29回選抜高等学校野球大会にて王貞治投手を擁して甲子園大会初優勝。戦後はじめてセンバツ優勝旗が箱根の山を渡った[2]。
1959年春季に不祥事から出場停止となり、東都大学野球二部リーグ落ちしていた母校の中大監督に、同年秋季から就任。就任後の1960年代から70年代を通じて中大は強く、駒澤大などと常に東都大学野球の覇を競い、のみならず六大学野球加盟校などを例年のごとく打ち破り、全国の覇を競った。この間、東都大学リーグ優勝22回、全日本大学野球選手権大会優勝3度、明治神宮野球大会優勝1度を記録。35年もの間 中大の監督を務め、1994年に総監督に就任した[2]。
娘・芙美子は、中大野球部の教え子かつ巨人V9戦士・末次利光の妻[3]。
2019年9月には、この年限りでプロ生活から引退を決めていた中大出身の阿部慎之助の試合を、同野球部監督の清水達也とともに観戦する姿を見せていたが[4]、翌2020年8月7日、肺がんのため、東京都三鷹市の病院で死去。94歳没[5]。
キャリア・経歴
編集- 選抜高等学校野球大会優勝監督
- 全日本大学野球選手権大会優勝監督
- 明治神宮野球大会優勝監督
- 第2回日米大学野球選手権大会日本代表監督
- 第8回日米大学野球選手権大会日本代表監督
- 全日本大学野球連盟専務理事
- 日本学生野球協会評議員
- 早稲田実業学校硬式野球部OB会会長
中大硬式野球部での教え子
編集
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総監督時代
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早実硬式野球部での教え子
編集著書
編集- 『軟式野球 はじめて野球を志す人のために』(日本文芸社:1980年6月)
関連図書
編集- 『高校野球 甲子園優勝物語』(ベースボール・マガジン社)
- 『岩にツメを立てて登れ-野球界の名将に学ぶ 新スパルタ育成法-』(日本文芸社)
- 『早実野球部 栄光の軌跡』(ベースボール・マガジン社)
脚注
編集- ^ “訃報 早実、中大で日本一へ導いたアマ球界の名将逝く――。ソフトバンク・王貞治会長の高校恩師・宮井勝成さん死去”. 週刊ベースボールONLINE. (2020年8月14日) 2021年5月24日閲覧。
- ^ a b c Yahoo!ニュース 早実、中大で全国制覇、宮井勝成さん偲ぶ会に300人 ソフトバンク王貞治会長ら…主な出席者 2022/1/15(土) 20:54 スポーツ報知 - ウェブアーカイブ(ウェイバックマシン、2022年1月18日)
- ^ [1]
- ^ “巨人・阿部の恩師が観戦 中大・宮井総監督「指導者として頑張ってもらいたい」清水監督も激励”. Sponichi Annex. (2019年9月28日) 2021年3月1日閲覧。
- ^ “巨人沢村ら「ショック」中大恩師・宮井勝成さん追悼”. 日刊スポーツ. (2020年8月7日) 2021年3月1日閲覧。
- ^ “中大・清水達也監督、宮井勝成さんの教え継承「中央大学なんだから道の真ん中を歩ける人間になれ」”. スポーツ報知. (2022年1月15日) 2022年5月2日閲覧。
関連項目
編集外部リンク
編集- 東京都名選手列伝 王貞治
- あの日の王少年
- 東京都代表校の足跡 1957年早稲田実
- 野球部のあゆみ - 中央大学硬式野球部