河原田明
群馬県出身の元プロ野球選手
河原田 明(かわはらだ あきら、1940年〈昭和15年〉9月18日 - 2023年〈令和5年〉5月20日)は、群馬県前橋市[1]出身のプロ野球選手(投手)。
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 群馬県前橋市 |
生年月日 | 1940年9月18日 |
没年月日 | 2023年5月20日(82歳没) |
身長 体重 |
183 cm 75 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1959年 |
初出場 | 1960年 |
最終出場 | 1961年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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来歴・人物
編集早稲田実業学校高等部では、同期の王貞治の控え投手として甲子園に3回出場[1]。1956年の夏の選手権は2回戦で岐阜商に敗退[2]。2年上のチームメートに捕手の醍醐猛夫、三塁手の徳武定之がいる。
1957年の春の選抜では、決勝で高知商を破り優勝を経験する[3]。しかし同年の夏の選手権はベンチ入りできなかった。王に出場資格がないことで話題となった同年秋の静岡国体は、1回戦で倉島今朝徳のいた上田松尾高と対戦、リリーフで登板するが大敗を喫する。1年上のチームメートには遊撃手の相沢邦昭がいた。
1958年の春の選抜では、準々決勝で済々黌高に敗退するが、この試合で王をリリーフし甲子園初登板を果たす[3]。同年の夏の甲子園都予選も決勝に進むが明治高に敗退、この試合でも王をリリーフして登板した。
大型左腕として期待され、1959年に東映フライヤーズに入団。1960年に一軍に上がり、8月24日には西鉄ライオンズを相手に初先発。しかしその後は伸び悩み、1963年限りで現役引退。
現役引退後はロッテオリオンズのトレーナーを務めている期間があった。
2023年5月20日に死去[4]。82歳没。
詳細情報
編集年度別投手成績
編集年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
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1960 | 東映 | 6 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | -- | ---- | 51 | 11.0 | 14 | 0 | 4 | 0 | 1 | 6 | 0 | 0 | 8 | 6 | 4.91 | 1.64 |
1961 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | -- | ---- | 15 | 3.0 | 5 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 3 | 3 | 9.00 | 1.67 | |
通算:2年 | 8 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | -- | ---- | 66 | 14.0 | 19 | 1 | 4 | 0 | 1 | 7 | 0 | 0 | 11 | 9 | 5.79 | 1.64 |
背番号
編集- 15 (1959年 - 1961年)
- 38 (1962年 - 1963年)
脚注
編集関連項目
編集外部リンク
編集- 個人年度別成績 河原田明 - NPB.jp 日本野球機構