安藤重長

江戸時代前期の大名。上野高崎藩2代藩主。従五位下・伊勢守、右京亮。対馬守系安藤家2代。本多正盛の長男。江戸幕府 寺社奉行、奏者番。子に安藤重広(次男、旗本寄合席)

安藤 重長(あんどう しげなが)は、江戸時代前期の大名上野国高崎藩2代藩主。官位従五位下伊勢守右京亮。対馬守系安藤家2代。

 
安藤 重長
安藤重長像(良善寺蔵)
時代 江戸時代前期
生誕 慶長5年(1600年
死没 明暦3年9月29日1657年11月5日
官位 従五位下伊勢守右京亮
幕府 江戸幕府寺社奉行奏者番
主君 徳川秀忠家光家綱
上野高崎藩
氏族 本多氏三河安藤氏
父母 父:本多正盛、母:安藤重信の娘
養父:安藤重信
兄弟 重長重元重矩
志水忠宗の娘
重之重広重常丹羽光重正室、正寿院
養女:長寿院
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経歴

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本多正盛の長男として誕生した[1]。母は安藤重信の娘で、外祖父である重信の養子となる。同母弟の重元、異母弟の重矩も重信の養子となっている。

慶長14年(1609年)に徳川家康に拝謁する。大坂の陣に参戦し、元和5年(1619年)、上野板畠2千石を賜う。元和7年(1621年)、重信の死去により家督を相続する。寛永9年(1632年)には改易となった徳川忠長を預かり、高崎城に幽閉した。その後、書院番頭寺社奉行(1635年 - 1657年)、奏者番などを歴任した。

明暦3年(1657年)死去。嫡子の重之が既に死去していたため、家督は嫡孫の重博が継いだ。

系譜

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父母

正室

子女

養女

脚注

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  1. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 70頁。
  2. ^ 寛政重脩諸家譜 第6輯』國民圖書、1923年、801頁。doi:10.11501/1082716https://dl.ndl.go.jp/pid/1082716/1/409 
  3. ^ 次男に安藤信周